徳田博美

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徳田 博美(とくだ ひろみ、1922年11月5日 - 2007年11月27日)は、日本大蔵官僚東京府出身。

来歴・人物[編集]

東京府立第一中学校第一高等学校を経て、海軍主計科短期現役、所謂「短現組」第11期として、1944年9月、海軍経理学校卒業。戦後の1949年に東大を経て大蔵省入省。同期には高橋元(大蔵事務次官)、金子太郎(環境事務次官、丸三証券社長)、戸塚岩夫(関税局長)、北田栄作(造幣局長、同期トップ入省者)ら。

主計局主計官を経て、銀行局総務課長時代の1973年、第一勧銀合併、さらに太陽神戸銀行合併を実現して銀行行政史にその名を残した。ただ、続いて中小相互銀行や中小信用金庫らの2つの合併、住友銀行と関西相互銀行(後の関西銀行。現・関西アーバン銀行。なお後に関西アーバン銀行はびわこ銀行を吸収合併している)の合併には失敗した。これら一連の「金融効率化」行政は1981年の米里恕銀行局長(1951年入省)、土田正顕銀行課長(1959年入省)らによる新銀行法改正に連なっていった。のち、銀行局保険部長、大阪国税局長を経て、1977年6月から1979年7月まで銀行局長。

銀行局長時代には、社会問題化していたサラ金の規制に取り組み、貸金業規制法(1983年5月成立、同時に改正出資法成立)の素案を作成した。苛酷な取立てや過剰な貸付を禁止し、サラ金を登録制にし、大蔵省の立ち入り検査の対象にした。野村総研副社長時代の1987年、金融制度調査会消費者信用問題専門委員会委員長として、消費者金融の健全な成長の為には、「銀行による適切な資金供給が望ましい」との見解を提出、この報告はのちの大手サラ金の株式上場(1993年)の後押しになったといわれている。また1988年2月には、金融制度調査会第二委員会に委員として所属、第二委は1989年5月、「子会社方式による銀行と証券の相互参入」の中間報告を打ち出した[1]

退官後は、日本開発銀行理事(1979年7月 ~ 1981年9月)、商工組合中央金庫副理事長(1981年9月 ~ 1984年9月)、野村證券顧問(1984年9月 ~ 1994年3月)、野村総合研究所副社長(1984年12月 ~ 1988年1月)、同理事長(1988年1月 ~ 1991年12月)、同顧問(1991年12月 ~ )を歴任。他に保険審議会会長など。

のちに、同じく野村證券出身の小林等(野村ファイナンス会長から武富士社長、顧問)の後を受けて、1994年2月 ~ 1996年3月にかけて武富士監査役に就任。また武富士には、大蔵省出身者として副会長の秋吉良雄(北海道開発事務次官、大蔵省官房審議官)がいた。このことから、1996年7月に手持ちの武富士の未公開株を処分した問題(同年8月に株式公開)でもマスコミにクローズアップされもした。ただ、銀行界における8%の自己資本比率規制(BIS規制)導入に際して、独自の論陣を張り、その後に起こることとなる金融界の凋落などの問題点を喝破するなど、金融や財政・税制問題のエコノミストとしても知られている。著書に、『壮大なる社会実験 - アメリカの金融自由化』など。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『大蔵支配 歪んだ権力』(朝日新聞経済部,1997年7月) P92 ~