徳山則秀
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徳山 則秀(とくのやま・のりひで、天文13年(1544年) - 慶長11年11月22日(1606年12月21日))は、戦国時代・安土桃山時代の武将。江戸幕府旗本。美濃国出身。通称孫三郎、五兵衛。二位法印秀現。父は少左衛門(貞孝)。
徳山氏は土岐氏の庶流で美濃国大野郡徳山の土豪。はじめ斎藤氏に属したと思われるが、後に織田信長に臣従し、柴田勝家の与力となる。一向一揆など北陸地方の平定に尽力し、加賀国松任城4万石の主となる。信長横死後も勝家に従い、賤ヶ岳の戦いでは佐久間盛政隊の先鋒として奮戦した。 戦後秀吉に赦され、丹羽長秀に仕えた。その後長重が減封された時に召し放たれて前田利家に仕え、天正13年(1585年)に末森城の戦いに従軍して佐々成政と戦った。早くから徳川家康に通じ、関ヶ原の戦い直前に前田家を出奔し、家康に仕えて5,000石を領した。子孫は旗本として続いた。