徐謙

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徐 謙(じょ けん)は、中華圏の人名。中華民国において、同姓同名の2人の要人が存在する。

  • 徐謙 (江西) - 中華民国の政治家・法学者。本記事において詳述する。
  • 徐謙 (甘粛) - 中華民国の政治家。新疆省の政治家。新疆の統治者である楊増新の下で、省政務庁長、財政庁長などを歴任した。

徐謙
Xu Qian.jpg
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
プロフィール
出生: 1871年6月25日
同治10年5月初8日)
死去: 1940年民国29年)9月26日
Flag of Hong Kong (1876–1955).svg イギリス香港
出身地: 清の旗 江西省南昌府南昌県
職業: 政治家・法学者
各種表記
繁体字 徐謙
簡体字 徐谦
拼音 Xú Qiān
和名表記: じょ けん
発音転記: シュー チエン
ラテン字 Hsu Ch'ien
英語名 George Hsu
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徐 謙(じょ けん)は、清末中華民国の政治家・法学者。北京政府国民政府で主に司法部門の要職につく。中国国民党左派・反蒋介石派として福建事変にも参加した。季龍。教名は喬治。別署名は黄山樵客。祖籍は安徽省歙県

事績[編集]

清末民初の活動[編集]

1902年光緒28年)、壬寅科挙人となる。翌年、癸卯科進士となった。訳学館に入学して、法律政治科を専攻した。1904年(光緒30年)、仕学館に転入する。1907年(光緒33年)卒業した。

翰林院編修、法部参事を歴任して、法律編査館を主管した。翌年、京師審判庁庁長となり、後に京師高等検察長に昇進した。1910年(宣統2年)4月、アメリカへ国際会議出席等のため赴く。翌年春に帰国すると、国民共進会の組織を提唱した。

中華民国成立後の1912年民国元年)4月、北京政府の司法部次長に任命される。8月には、国民党の本部参議となった。翌年、二次革命(第二革命)で革命派が敗北すると、徐謙も下野して、弁護士を開業した。

袁世凱死後の1916年(民国5年)9月、段祺瑞内閣において、司法部次長に返り咲く。1919年(民国8年)、ヴェルサイユ会議に出席した。帰国後は下野し、天津で『益世報』の総編輯となる。

1920年(民国9年)11月、広州に向かって孫文(孫中山)の護法運動に参加し、軍政府司法部長に任命された。さらに広州政府大理院院長も兼任している。その後、一時的に北京に戻り、1922年(民国11年)9月、北京政府の王寵恵臨時内閣で署理司法総長に任命された。

国民党左派としての活動[編集]

翌年2月、胡漢民とともに、上海で和平統一代表の任にあたった。まもなく広州へ戻って、私立嶺南大学文学系主任となっている。1924年(民国13年)9月、私立上海法政大学校長となったが、翌月、馮玉祥の招聘に応じて俄文法政学校校長、中俄庚款委員会主席に任ぜられた。

1925年(民国14年)7月以降は、中国国民党側で活動する。武漢国民政府において、国民党中央常務委員、国民政府委員会常務委員、軍事委員会軍事裁判所長などの党・政・法の要職をつとめた。しかし、1927年(民国16年)4月の上海クーデターにより徐謙は失脚し、上海の租界を経由して香港に逃れた。

1933年(民国22年)に李済深らが福建事変を起こすと、徐謙もこれに参加し、最高法院院長兼農工幸福委員会主席に任じられた。しかし、まもなく福建事変は敗北に終わり、徐謙は香港に再び逃亡した。日中戦争(抗日戦争)勃発後は、国民政府に復帰して国防委員会委員、国民参政会参政員などをつとめた。しかし1939年(民国28年)10月、病気療養のために香港に引き返した。

1940年(民国29年)9月26日、香港にて病没。享年70(満69歳)。

参考文献[編集]

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1
 中華民国の旗 中華民国(北京政府)北京政府
先代:
張耀曽
司法総長(署理)
1922年9月 - 11月
次代:
許世英
中華民国の旗 中華民国(国民政府)国民政府
先代:
集団指導制:汪兆銘
(広州国民政府)
武漢国民政府常務委員
1927年3月 - 9月
(集団指導制:汪兆銘譚延闓
孫科宋子文
次代:
汪兆銘ら5名
(南京国民政府)