徐熙 (五代十国)

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雪竹図 上海博物館蔵

徐熙(じょ き、? - 975年)は、五代十国時代南唐画家前蜀後蜀黄筌とともに花鳥画の二大流派の徐氏体を創始。

概略[編集]

鍾陵(現在の江西省南昌市進賢県)、一説には金陵(現在の江蘇省南京市)の人ともいう。江寧の名族で代々南唐に仕える[1]。高雅で穏やかな性格で、生涯官職には就かず平民として生きた。田園と自然の野趣を持っており写生を善くし、花鳥魚果の名人といわれていた。南唐の君主であった李煜が徐熙の名画を多く蓄え、後にに降伏したさいにその秘蔵の画をすべて贈呈した[2]。宋の太宗は徐熙の画について「花果の妙、吾れ独り熙あるを知るのみ」といって賛美した。

徐熙の画風は水墨を主体として淡彩を加え、粗放な筆致のうちに写意的表現を特色とした。この手法は徐氏体と称されて黄筌の黄氏体とともに""花鳥画""の二大源流を成した。北宋の『図画見聞誌』には黄筌の画法の富貴にたいし、「野逸」と評される[3]。この「野逸」の一格を創出したため、徐熙画派と呼ばれた。徐熙画派は「徐家野逸」とも呼ばれ、中国絵画流派の1つで、「黄家富貴」の院体画風を突破したことで出現した。花鳥画の題材と内容、表現方法の多様化に貢献し、後世に極めて大きな影響を与えた。この画派の画法は黄筌とは異なっており、美術史において「徐熙異体」と称されている。多くの作品は太い筆と濃墨で制作し、色彩を少し施し筆跡は隠さず「落墨花」と呼ばれる[4]。彼の「落墨」ほ、即ち「用墨用筆」であり、花卉の全体部分を勾勒しながら同時に染める。最後色彩を施し、枝、葉、ずい、がくの生態に立体感を与える。徐熙自身は「落墨の際、賦色と暈淡は細かい」と言っている。孫の徐崇嗣・徐崇矩によって大成され、崇嗣は墨線を用いない没骨画を創始した人物とされた[5]。後の張仲、王若水、明代の沈周、陳道復(陳淳)、文徴明、徐渭らにより発展させられ、水墨写意花鳥画を定着された。徐熙は即ち「筆墨の遊び」という画法を駆使して当時すでに成熟されていた山水画の水墨の技法を花鳥画に融合させた。

日本では村田珠光が徐熙の鷺の画を所有し、茶会に使っていたとされる。その画は後に蒔絵師の源三郎に伝わったのを新井白石が見たと記録されている[注釈 1][6]

参考文献[編集]

  • 邵博・撰『聞見後録』
  • 張丑・撰『清河書畫舫』
  • 董逌・撰『廣川畫跋』
  • 趙希鵠・撰『洞天清録集』
  • 沈括・撰『夢渓筆談[7]

注釈[編集]

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  1. ^ 新井白石『退私録』より。

脚注[編集]

  1. ^ 瀧遼一『縮刷 東洋歴史大辞典 中巻』臨川書店、1992年、P.401。
  2. ^ 内藤湖南『支那絵画史』ちくま学芸文庫、2002年、P.94。
  3. ^ 内藤湖南『支那絵画史』ちくま学芸文庫、2002年、P.94。
  4. ^ 王凱 『中国絵画の源流』(第1刷版) 秀作社出版株式会社、2014年6月、85-86頁。ISBN 9784882655428 
  5. ^ 内藤湖南『支那絵画史』ちくま学芸文庫、2002年、P.96。
  6. ^ 飯島虚心ほか『蒔絵師傳・塗師傳 下』吉川弘文館、1925年、38p。
  7. ^ 瀧遼一『縮刷 東洋歴史大辞典 中巻』臨川書店、1992年、P.401。