影山光一
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影山 光一(かげやま こういち、1904年1月27日 - 1964年3月26日)は、日本の電機および鉄道技術者で実業家。高知県出身。近畿日本鉄道(近鉄)元専務取締役である。
略歴[編集]
高知県安芸郡安芸町(現・安芸市)西浜に生まれる。旧制安芸中学校時代には平均点で95点とも98点ともいわれるほどの優秀な成績を残したという。
旧制松山高校を経て1926年に東京帝国大学工学部卒業し、鈴木商店(現・味の素)に入社。まもなくイギリスに渡り、ウェスティングハウス(WH)の子会社であるメトロポリタン・ビッカース電機会社に工員(名目上は実習生)として勤務、技術を習得した。
1929年、同郷の先輩で近鉄の前身・参宮急行電鉄(参急)の幹部であった井内彦四郎に招聘され、中途入社として参急に入社する。英国からの帰国時には米国でゼネラル・エレクトリック(GE)社とWH社にも立ち寄り、技術を学んでいる。
参急と親会社である大阪電気軌道は、1930年に大阪 - 伊勢間(翌1931年に宇治山田駅まで延伸)に電車による直通運転を開始したが、影山はその直通運転に使用する2200系電車の設計にも関わった。
影山は、参急開業時には伊勢側の車両基地である明星検車区の区長に26歳で就任。運行開始当初、制御装置や抵抗器の故障が多発していた2200系の整備修理に自ら関わり、電気機器を製造した三菱電機[1]の技術者とともに改良を重ね、故障を大きく減らしていった。
参急が関西急行鉄道、さらに近鉄と変わる中で、戦後も同社の技術者として車両設計に携わり、近鉄の車両部に異動した後にも、車両部の直属の部下で影山の後継者的人材でもあった藤縄郁三、赤尾公之、近藤恒夫らとともに、日本で初めての高加減速車両「ラビットカー」[2]や世界で初めてのダブルデッカー車両「ビスタカー」の開発に関わるなど、近鉄、また日本の鉄道技術史にも大きな功績を残した。特に赤尾はMM’ユニット方式の研究や開発に影山らとともに携わり、後に影山と同様に同社の取締役級にまで昇格している。
1953年に常務取締役に就任、1960年には専務取締役に昇格したが、1964年、60歳で在職のまま死去した。
脚注[編集]
- ^ 三菱電機はWHからの技術提供を受けて電気機器を製造していたという関係もある。
- ^ JTBパブリッシング JTBキャンブックス「近鉄電車」三好好三著 P.195 近鉄6800系の記事
参考文献[編集]
- 「東への鉄路 - 近鉄創世記」(著:木本正次、1974年。ISBN 4313830693〈上巻〉、ISBN 4313830707〈下巻〉)
- 「80年のあゆみ」近畿日本鉄道 1990年