張賢妃

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賢妃張氏(けんひ ちょうし、? - 紹興12年2月6日1142年3月22日))は、南宋高宗の妃嬪。孝宗の養母。

生涯[編集]

開封府の人。南宋以前の経歴については不明である。高宗が即位すると、才人に封ぜられた。建炎4年(1130年)、婕妤に進んだ。高宗は実子の元懿太子趙旉が早世したため、遠縁に当たる幼い趙瑗(後の孝宗)らを養子とし[1]、妃嬪らに紹介して、養母を選ぼうとした。この時、潘賢妃(元懿太子の母)は実子を亡くした悲しみが癒えず、無関心な態度でいた。張婕妤が手招きをすると、趙瑗はひょろひょろと張婕妤の元へ行った。

紹興10年(1140年)、張氏は婉儀に進んだ。紹興12年2月6日(1142年3月22日)、薨去した。賢妃の位を贈られた。

伝記資料[編集]

  • 宋史
  • 『宋会要輯稿』
  • 『婉儀張氏贈賢妃制』
  • 『建炎以来朝野雑記』

脚注[編集]

  1. ^ 当時、高宗はまだ20代で、多くの妃嬪を持っていたにもかかわらず、養子をとった。南宋では、高宗は逃走中に金軍の襲撃を受けた際のショックで性的不能になった、あるいはペドフィリアとの噂も立った。