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張裼

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張 裼(ちょう せき、814年 - 877年)は、唐代官僚は公表。本貫瀛州河間県[1]

経歴

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張君卿の子として生まれた。会昌4年(844年)、進士に及第し、寿州団練判官を初任とした。大中年間、于琮が無官のとき、寿春県に旅行したが、張裼は于琮を格別に礼遇した。張裼は河東掌書記をつとめた。咸通8年(867年)、于琮が宰相となると、張裼は于琮に召し出されて司勲員外郎・判度支となった。ほどなく翰林学士に任用され、司勲郎中知制誥に転じ、中書舎人・戸部侍郎・翰林学士承旨に任じられた。咸通13年(872年)、于琮が韋保衡と対立して追放されると、張裼も連座して封州司馬に左遷された。咸通14年(873年)、韋保衡が殺害されると、于琮は冤罪を雪がれた。張裼は入朝して、太子賓客となった。乾符2年(875年)、吏部侍郎・京兆尹に転じた。乾符3年(876年)、華州刺史として出向した。この年の冬、検校吏部尚書鄆州刺史・天平軍節度観察等使に転じた。乾符4年(877年)、鄆州で死去した。享年は64[2]

子に張文蔚・張済美・張貽憲・張仁亀があった[3]

脚注

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  1. ^ 旧唐書 1975, p. 4623.
  2. ^ 旧唐書 1975, pp. 4623–4624.
  3. ^ 旧唐書 1975, p. 4624.

伝記資料

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参考文献

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  • 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2