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張献恭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

張献恭(ちょう けんきょう、生没年不詳)は、唐代官僚軍人本貫陝州平陸県[1]

経歴

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幽州節度使張守珪の弟の張守瑜の子として生まれた。軍功を重ねて太常卿に試用され、右羽林将軍を兼ねた。大暦3年(768年)、従兄の張献誠に代わって梁州刺史となり、御史中丞を兼ね、山南西道節度観察使をつとめた。大暦12年(777年)7月、吐蕃の1万人あまりの兵を岷州で撃破した。建中2年(781年)1月、検校兵部尚書を加えられ、東都留守をつとめた。建中3年(782年)1月、太府卿・容州刺史・本管経略招討使となった。建中4年(783年)7月、渾瑊盧杞段秀実とともに長安の西に壇を築いて吐蕃の尚結賛と会盟した。興元元年(784年)6月、検校吏部尚書に転じた。徳宗が盧杞を饒州刺史に移そうとすると、給事中袁高がこれに反対した。献恭は袁高の意見を至当なものと言上したが、徳宗は聞き入れなかった。献恭はさらに「袁高は陛下の一良臣」と上奏した。徳宗は宰相の李勉らを顧みて「朕は盧杞に一小州の刺史を授けたいのだが、いけないのか」というと、「陛下は大州の刺史を授けることもおできになりますが、どうして士庶を失望させられましょうか」と答えた[2][3]

子に張煦があり、夏州節度使に上った[4][5]

脚注

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  1. ^ 旧唐書 1975, p. 3497.
  2. ^ 旧唐書 1975, p. 3498.
  3. ^ 新唐書 1975, p. 4550.
  4. ^ 旧唐書 1975, p. 3499.
  5. ^ 新唐書 1975, p. 4551.

伝記資料

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参考文献

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  • 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2 
  • 『新唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00320-6