浜松城

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浜松城
静岡県
模擬天守
模擬天守
別名 出世城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 不明
(鉄筋コンクリート造模擬・1958年)
築城主 今川貞相?
築城年 永正年間(1504年 - 1520年)?
主な改修者 徳川家康
主な城主 飯尾氏、松平氏、堀尾氏
井上氏、水野氏他
廃城年 明治4年(1871年)
遺構 石垣、曲輪
指定文化財 なし
再建造物 模擬天守
位置 北緯34度42分42.39秒
東経137度43分29.67秒

浜松城(はままつじょう)は静岡県浜松市中区にある城。野面積みの石垣で有名。歴代城主の多くが後に江戸幕府の重役に出世したことから「出世城」といわれた。

歴史[編集]

今川氏・飯尾氏時代[編集]

浜松城(武家時代の名称は濱松城・一般的には新字体が用いられる。)の前は曳馬城(引馬城、引間城)がこの浜松の拠点だった。築城者については諸説あるが、瀬名姫の先祖である今川貞相が初めて築城したという。

斯波氏今川氏が抗争すると、この地を支配していた大河内貞綱は斯波氏に味方するが今川氏に敗れた。その後は今川氏親の配下・飯尾氏がこの地を支配することになる。永正11年(1514年)、飯尾乗連(またはその父飯尾賢連)が城主になったともいわれる。乗連は今川氏に引き続き仕え、桶狭間の戦いにも参加する。桶狭間の戦いにおいて今川義元が戦死すると今川氏の衰退が始まるが、この時期に飯尾氏の当主も乗連から子の連竜へと移り変わる。

曳馬城石碑

今川氏の衰退後、城主飯尾連竜今川氏真に反旗を翻し、永禄8年(1565年)に今川軍に攻囲され多大な損害を被るが、陥落は免れた。この時今川からの和議勧告を受諾した連竜は、戦後に今川氏再属のため駿府への大赦御礼に出向いたが、和議は謀略で、連竜は殺された。以後の曳馬城は、連竜の未亡人・お田鶴の方(椿姫)を中心とした飯尾氏の残党によって守られた。

だが徳川家康によってその弱体化を見透かされ、永禄11年(1568年)の年末には攻略された。城主を謀殺されて今川氏を頼みとしなくなった城内は、すでに徳川派と武田派に分裂しており、その徳川氏への内応者によって早期陥落したといわれる。その際に討ち死にしたお田鶴の方を祀った「椿姫観音」が城の近くに残っている。

家康時代[編集]

元亀元年(1570年)に家康は武田信玄の侵攻に備えるため本拠地を三河国岡崎から遠江国曳馬へ移した。岡崎城は嫡男・信康に譲られた。当初は天竜川を渡った見付磐田市)に新たに築城をするつもりであったが、籠城戦に持ち込まれた際天竜川により「背水の陣」となることから、曳馬城を西南方向に拡張した。その際、曳馬という名称が「馬を引く」、つまり敗北につながり縁起が悪いことから、かつてこの地にあった荘園浜松荘)に因んで城名・地名ともども「浜松」と改めた[1]

元亀3年(1573年)、武田信玄がこの城を攻める素振りを見せながらこれを無視するような行軍をして家康を挑発。挑発された家康は浜松城から打って出たが、武田軍の巧妙な反撃に遭って敗北を喫した(三方ヶ原の戦い)。

拡張・改修は天正10年(1582年)ごろに大体終わった[1]が、その4年後の天正14年(1586年)、家康は浜松から駿府に本拠を移した。家康の在城期間は29歳から45歳までの17年になる。

家康以後[編集]

家康以後、天正18年(1590年)からは秀吉の家臣堀尾吉晴と、その次男堀尾忠氏が合わせて11年間在城したが、関ヶ原の戦いの功績で出雲国松江に移封。以後は、一時徳川頼宣の領地だった時期を除いて、譜代大名各家が次々に入った。近世には天守は存在しなかったようで絵図にも記載がない。本丸にあった二重櫓が天守代用とされていた。

浜松城は明治維新後に廃城となり破壊された。城址は1950年に「浜松城公園」となり、1958年鉄筋コンクリート製の復興天守が再建された。1959年には浜松市の史跡として指定された。 現在の天守閣は資料館として使われており、家康を初めとした当時のゆかりの品々を見学できるほか、城の周辺は緑が溢れ、の名所としても名高く、シーズンには花見客で溢れ返る。

もともと曳馬城だった部分には、江戸時代には米蔵などが置かれていたが、明治維新後の1894年井上延陵によって東照宮が創建され、太平洋戦争中の1945年焼失したが1959年に再建されて現在に至る。

歴代城主(藩主)[編集]

出世城[編集]

冒頭で述べたとおり、一般的には数々の浜松城主が幕府の重役に出世した例が多いことから出世城とも呼ばれたとされるが、一方で井上正甫のように不祥事を起こし左遷された例もある。

水野忠邦肥前国唐津を治めていたが、長崎の警備があるため一定以上の出世が困難であった。しかし、忠邦は幕閣として参画するために日頃から幕府要人に接待・賄賂攻勢をかけていた。幕府は事件を起こした正甫を左遷し、忠邦を浜松へ移した。忠邦は寺社奉行に出世し、更に文政11年(1828年)には老中となった。

忠邦はその後の天保の改革で躓き、続く政争で失脚し長男・忠精の代になって出羽国山形に移された。浜松は水野忠精に代わって井上正甫の長男・正春が治めることになった。

江戸265年の間に浜松藩の藩主は22人、約12年弱毎に藩主が変わっている。

交通[編集]

参考文献[編集]

  • 『徳川家康 四海統一への大武略』 歴史群像シリーズ11、学習研究社、1989年

脚注[編集]

  1. ^ a b 小和田哲男 「信長と同盟、今川・武田氏を撃破」『歴史群像シリーズ・徳川家康』 学習研究社、9頁、56-57頁。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]