建国神廟

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建国神廟
建国神廟
所在地 満洲国新京特別市帝宮
位置 北緯43度54分11.5秒
東経125度20分39.2秒
座標: 北緯43度54分11.5秒 東経125度20分39.2秒
主祭神 天照大神
創建 1940年(康徳7年)
本殿の様式 銅版葺木造の権現造
例祭 3月1日(建国節祭)
7月15日(元神祭)
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建国神廟鎮座祭(1940年7月15日)

建国神廟(けんこくしんびょう)は、満洲国の建国の元神とされた天照大神を祀った宗教施設。満洲国皇帝帝宮内にあった。1940年康徳7年)創建、1945年康徳12年)廃絶。

日本のいわゆる国家神道上の神社とはされなかったが、祭神をはじめ、建物の構造や儀式等は神社そのものであった。

概要[編集]

建国神廟は、1940年康徳7年)、満洲国首都新京特別市満洲国帝宮内に創建された。祭神日本皇室の祖神とされる天照大神。天照大神は、満洲国建国の元神ともされていた。

1940年(康徳7年)7月15日の払暁、建国神廟鎮座祭が執り行われ、天照大神の神降ろしが行われた。その後、満洲国皇帝溥儀は文武百官を集め、「惟神(かむながら)の道」を国の基本とする「国本奠定詔書」を宣布した。また、建国神廟の祭祀・運営を所管する皇帝直隷機関として、同日付で祭祀府が新たに設置された。祭祀府総裁には、満洲国参議府副議長で元日本陸軍中将近衛師団長橋本虎之助が任命された。

建国神廟の創建は溥儀の発案とされる。1935年(康徳2年)の初訪日で、溥儀は日本皇室の影響を大きく受けるとともに、昭和天皇の威光と一体化することで、日本軍人・官僚勢力に対抗しようとした。その中で、天照大神への傾倒を強めていった。

1939年(康徳6年/昭和14年)秋、満洲国政府は非公式に日本の宮内省に対して天照大神の神廟を帝宮内に建立する考えがあることを伝えた。宮内省は陸軍省と協議して細部を詰め、1940年(昭和15年)6月21日付の外務大臣公文で正式に満洲国から日本政府に要請したことにより、内閣閣議案の作成に着手した。内閣には、天照大神を他国の帝宮で祀ることに消極的な意見もあったものの、同年6月29日に「満洲国建国神廟創建ニ関スル件」を閣議決定し、即日、外務省を通じて満洲国政府に伝達した[1]。この閣議決定では、満洲国政府からの公文で伝達された事項(建国神廟の創建、天照大神の奉祀、建国忠霊廟の創建などへの協力)を承服し、関係各省で研究の上、適切な措置を執ることなどを決めた。

昭和天皇は、満洲国が天照大神を祀ることにあまり気が進まなかったとされ[2]、「中国には古来、祭天の信仰があるから、を祀るのが妥当ではないか」と言ったという[3]

霊代[編集]

建国神廟の霊代(神体)は、紐付きの白銅製丸鏡である。当初は天皇からの神鏡の下賜を宮内省に申し出たが、「天孫降臨ノ事實ト似通ヒ到底受諾シ難」いとして断られ、次に皇大神宮伊勢神宮)の分霊をうけたいと申し出たが、これも宮内省に断られた。結局、満洲国皇帝が持参した鏡に対し、伊勢神宮で所定の修祓(お祓い)を行うことに落ち着いた[1]

そこで満洲国は、鏡を京都の業者に調製させた。1940年(康徳7年)6月、満洲国皇帝が皇紀2600年祝賀のため来日した際、完成した銅鏡を持参して伊勢神宮・内宮を訪れ、皇帝立ち会いの下、神楽殿で神楽を奏して修祓した。修祓を受けた銅鏡は満洲国に持ち帰られ、帝宮内の神廟に安置された。また、皇帝が天皇から贈られた神宝として奉納された。

第二次世界大戦後、剣は祭祀府総裁の橋本虎之助が保管していたところ、赤軍ソビエト連邦軍)が没収した。また鏡は、引揚者とともに博多港に上陸。博多引揚援護局の確認後、行方不明となっている。

社殿[編集]

切手に描かれた社殿(1942年発行)

社殿は銅版葺木造の権現造で、内陣、祭祀殿、拝殿で構成されていた。

建国神廟は、満洲国版「伊勢神宮」という位置づけで創建されたが、日本の宮中三殿のように帝宮内にあるため一般人が参拝することは事実上不可能であった。この帝宮内の神廟は、当初仮神廟とされ、後日、帝宮外に一般の参拝もできる神廟の造営に着手することとされた。なお、この社殿は日本が1942年(昭和17年)に発行した満洲国建国10周年記念切手のうち2銭切手に描かれている。

1942年(康徳9年)7月15日、新たに新京特別市浄月区並びにその付近の地域を建国神廟造営用地として治定し、建国神廟を移転する計画が発表された[4]

同年12月21日の「建国神廟造営関係地域ニ関スル件」(康徳9年12月21日勅令第249号)及び「建国神廟造営関係地域」(康徳9年12月21日国務院佈告第18号)で、浄月潭を中心とした新京特別市、吉林省長春通陽両縣に亘る2万3千町歩(約230km²)の広大な地域を「神廟関係御造営地」と決定し、浄地(神域)とするため、新京特別市長又は縣長の許可無く工作物の新築・増改築を禁じたほか、土地の現状の変更、立木の伐採、広告物や看板に類する物件の設置を禁じたが、具体的に造営することなく満洲国崩壊に至った。

祭祀[編集]

年間祭祀[編集]

祭祀は、建国神廟祭祀令(康徳7年7月15日勅令第181号)に基づき、皇帝が自ら主宰する大祭、皇帝の参拝が行われる中祭、月旦祭(毎月1日)・月例祭(毎月15日)などの小祭が定められた。

  • 歳旦祭(1月1日) - 中祭
  • 万寿節祭(2月6日) - 中祭
  • 紀元節祭(2月11日) - 中祭
  • 建国祭(3月1日) - 大祭
  • 祈穀祭(穀雨日) - 中祭
  • 天長節祭(4月29日) - 中祭
  • 訪日宣詔紀念祭(5月2日) - 中祭
  • 鎮座紀念祭(7月15日) - 大祭
  • 嘗新祭(10月17日) - 中祭
  • 歳暮祭(12月31日) - 小祭
  • 遷座祭 - 大祭
  • 臨時親告祭 - 大祭

特徴[編集]

  • 神饌:厳寒時の調理が困難なこともあり、食材をそのまま供える生饌が採用された。満洲国の特産物である高粱大豆などが供えられた。
  • 神楽日本風の雅楽が採用され、儀式のときに奏された。
  • 祝詞延喜式祝詞に基づく「日文告文」と中国語の「満文告文」が用いられた。
  • 神札:伊勢神宮の神宮大麻に倣い、「建国神廟神璽」が各機関に授与された。

脚注[編集]

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  1. ^ a b 内閣『満洲国建国神廟創建ニ関スル件ヲ決定ス』、ref.A02030209400(国立公文書館)。
  2. ^ 岡部長章『ある侍従の回想記―激動時代の昭和天皇』朝日ソノラマ、1990年。
  3. ^ 児島襄『満洲帝国 II』文藝春秋、1983年。
  4. ^ 康徳9年7月15日国務院佈告第13号・祭祀府佈告第1号による。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]