広幡家
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廣幡家 | |
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本姓 | 正親町源氏嫡流 |
家祖 | 廣幡忠幸 |
種別 |
公家(清華家) 華族(侯爵) |
出身地 | 山城国 |
主な根拠地 | 山城国 |
著名な人物 |
広幡忠朝 広幡忠隆 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
廣幡家(ひろはたけ、新字体:広幡)は、清華家(新家、内々)の家格をもつ公家。桂宮家の分家。本姓は源氏。家系は正親町源氏で、豊臣秀吉の猶子となった八条宮智仁親王から始まる八条宮家の流れをくむ。
家紋は十六葉裏菊。官位は従一位内大臣を極官とした。江戸時代の家禄は500石(当初は1000石)。
廣幡家が明治維新までに出した公卿の数は8名。うち内大臣まで昇った者5名、大納言まで昇った者3名である。
歴史[編集]
廣幡家は江戸時代前期、正親町天皇の皇孫で陽光院太上天皇誠仁親王の第六王子・八条宮智仁親王の三男忠幸が、1664年(寛文4年)に源氏の姓を賜り一家を創立し、廣幡を称したことに始まる。忠幸は最初、尾張藩に赴き名古屋城で暮らしていたが、のち帰洛して公家となり大納言にまで進んだ。
1669年(寛文9年)、忠幸が薨去して男子がなかったため断絶するところだったが、同じく源氏で清華家の家格をもつ久我家からの養子継承が許された。ただしこの時に家禄を当初の1,000石から500石に減らされている。
江戸時代の廣幡家当主は代々五摂家のひとつ近衛家の猶子となり偏諱を賜っている。
明治維新後、1884年(明治17年)に制定された華族令により当時の当主忠礼は侯爵位を賜る。その子忠朝は侍従を務めた。忠朝の子・忠隆は逓信省に入って灯台局長・管船局長となり、さらに宮中に入り皇后宮大夫兼侍従次長を務めた。
菩提寺[編集]
菩提寺は、本家である桂宮家と同じく相国寺塔頭慈照院であった。
系譜[編集]
- 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
- (*広幡家における通字は「忠」(ただ)。4代前豊から8代忠礼までは代々五摂家のひとつ近衛家の猶子となって偏諱を賜っており、4代前豊・6代経豊・7代基豊の3名は、2代豊忠の「豊」(とよ)も使用している。)
八条宮智仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
広幡忠幸1 | 智忠親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊忠2[1] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠誠 | 忠章 | 忠成 | 長忠3 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
輔忠→前豊4 | 久我信通[1] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
前基→前秀5 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
経豊6 | 油小路隆倫 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
基豊7 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠礼8 | 水無瀬経家 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠朝9 | 池田頼秀 | 宮元徳麿 | 木邊貫一郎 | 横尾重礼 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠隆10 | 児玉忠康 | 忠良 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
増彌11[2] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠豊 | 忠恒12 | 忠昌 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
貴彦13 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幕末の領地[編集]
国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』によると、幕末期の広幡家領は近江国野洲郡南桜村のうち671石8斗4升であった。
脚注[編集]
系譜参考[編集]
- 日本の名字七千傑「正親町源氏」
- 公卿類別譜「広幡」 - ウェイバックマシン(2006年6月28日アーカイブ分)
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