広尾彰
![]() 広尾 彰(海軍少尉時代) | |
生誕 |
1920年1月![]() |
死没 |
1941年12月8日![]() |
所属組織 |
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軍歴 | 1940年 - 1941年 |
最終階級 |
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広尾 彰(ひろお あきら、1920年(大正9年)1月 - 1941年(昭和16年)12月8日)は、日本の海軍軍人。特殊潜航艇「甲標的」艇長として真珠湾攻撃に参加し、戦死した九軍神の一人。二階級特進により最終階級は海軍大尉。
人物・来歴[編集]
略歴[編集]
佐賀県三養基郡旭村(現・鳥栖市)出身。父は小学校の校長を勤める教育者であった。三養基中学校を経て、 海軍兵学校入校。広尾は海兵68期で豊田穣、酒巻和男、鴛淵孝らが同期生で、松永市郎は中学同窓であった。
1940年(昭和15年)8月卒業。特殊潜航艇(以下「特潜」 )搭乗員に選抜され訓練を受ける中、真珠湾攻撃に「特潜」の参加が決定し、広尾は5人の艇長の一人として選抜された。他の艇長は、岩佐直治、横山正治、古野繁実、同期生の酒巻である。広尾は艇附片山義雄(戦死後、兵曹長)とともに、伊二〇潜水艦から出撃し戦死した。
1960年に真珠湾近隣のケエヒラグーンで米軍のダイバーによって発見され引揚げられた潜航艇(艇内に遺体はなかった)について、同潜航艇を日本に返したときに遺っていた若干の遺品から日本側で古野艇のようだとされたとする説[1]が米側に伝わっており、日本にもこれを支持する研究家がいるが、日本の多くの研究家がこれを広尾艇としている[2]。根拠としては、魚雷も発射しないまま沈没していることから、であれば、こちらが不調が伝えられていた広尾艇ではないか、また、広尾は魚雷を撃ち尽くした後は切り込むと言っていたので、遺体がなくハッチが開いていた状況と合致するというもので、当時の海軍潜航艇の関係者が主に主張し、それを日本の多くの研究家がそのまま引継いでいるようである。
人物[編集]
兵学校時代の成績は優秀で、体育にも励み、恵まれた運動神経を活かし体操を得意としていた。ただし、入校当初は水泳が苦手であった。真珠湾攻撃に出撃する前に帰省を許された際は、母と並んで眠った[3]。出撃直前の広尾は、弁当とサイダーを渡され「まるでピクニック」 と笑っていたという[4]。同期生随一の詩吟の名手でもあった。
死後[編集]
真珠湾攻撃を行った「特潜」特別攻撃隊には連合艦隊司令長官・山本五十六から感状が授与され、広尾らは軍神とされた。獅子文六は、「岩田豊雄」名で横山正治を主人公に作品「海軍」を著したが、広尾は主人公の有力候補であった[5]。
九軍神と山本五十六[編集]
山本は当初この攻撃計画に反対していたが、収容の見込みがついたとして承認した。(ただし、収容の訓練は全く行われなかったとも伝えられる。)しかし懸念は払拭されず、出撃直前にも第六艦隊司令長官・清水光美に一存で取りやめる許可を与えている[6]。戦死の報を受けて、二首の和歌を詠んだ。
戦死後、広尾に正七位勲五等功三級が贈られた。戒名は忠晃院釈義彰[3]。 佐賀県鳥栖市の朝日山麓に墓碑がある。
栄典[編集]
脚注・出典[編集]
参考文献[編集]
- 佐々木半九、今和泉喜次郎『決戦特殊潜航艇』 朝日ソノラマ ISBN 4-257-17047-6
- 獅子文六『海軍随筆』 中公文庫 ISBN 4-12-204232-1
- 豊田穣『同期の桜』光人社 ISBN 4-7698-0167-X
- 豊田穣『江田島教育』 集英社文庫 ISBN 4-08-750697-5
- 豊田穣『蒼空の器』光人社NF文庫 ISBN 4-7698-2002-X
- 中村秀樹『本当の特殊潜航艇の戦い』光人社NF文庫 ISBN 978-4-7698-2533-3