平田洋

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平田 洋
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県豊田市
生年月日 (1975-11-25) 1975年11月25日(44歳)
身長
体重
180 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1993年 ドラフト1位
初出場 1994年8月11日
最終出場 1995年9月7日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

平田 洋(ひらた ひろし、1975年11月25日 - )は、愛知県豊田市出身の元プロ野球選手投手[1][2]

豊田大谷高校時代から高校球界屈指の剛腕投手として注目され[1]1993年ドラフト会議で地元球団・中日ドラゴンズセ・リーグ)からドラフト1位指名を受けた[3]。入団当初から「将来のエース」と高い期待をかけられたが[4]、プロ入り後は一軍でわずか2試合のみ先発登板して0勝1敗とまったく活躍できず、プロ入り5年目の1998年限りで戦力外通告を受けた[5]

来歴[編集]

プロ入り前[編集]

豊田市立挙母小学校豊田市立崇化館中学校出身で[4]、小学校5年生の時に[6]父親が監督を務めていた少年野球チームで野球を始めた[1]

野球を始めてから投手一筋で[1]、中学卒業時には後に県大会で敗れた享栄高校を含め多くの強豪高校を抱える高校からスカウトされた末に豊田大谷高校へ進学し[7]、高校時代は2年生(1992年)でエースになった[8]。同年夏の愛知県大会では県立西尾実業高校相手に17奪三振を記録し、相手打線を1被安打のみに抑え完封勝利したほか[9]、続く県立安城東高校戦では10奪三振を記録して完封勝利を挙げ、創部5年目の同校を初めて5回戦進出に導いた[10]。しかし同校にとって初の「私学4強」相手の公式戦対決となった準々決勝・東邦高校戦では[8]これまでの「力で相手打線をねじ伏せる」勝負は通用せず、13被安打・10失点を喫して6回コールドゲームで敗戦してしまった[6]。しかし当時の野球部監督・後藤篤は平田を「3年生もよくやったが、ここまで来れたのは平田の力も大きい」と高く評価しており、平田も敗戦後に「来年はスピード・コントロールを付けて絶対に甲子園へ行きたい」と抱負を述べていた[8]

2年生の秋には最速146km/hの速球を武器に初の全国レベル大会となる明治神宮野球大会に出場し、中央球界からも注目されるようになった[6]。一方で3年生へ進級する直前の1993年3月中旬には打撃マシンでバントを練習していた時にボールを直接右肩に当ててしまい腱板損傷の亜脱臼という重傷を負い、春の県大会を棒に振るとともに周囲を心配させたほか[6]、腰痛にも悩まされた[11]。しかし当時着用していた背番号11を励みに腰痛を克服して復活し[11]、5月初めには復調して練習試合を重ね、速球(直球)は基礎体力・下半身の強化により148km/hまで上がっていた[6]。それに加え「力勝負だけだと打たれるから打たせて取ることも考えよう」として新たに変化球をマスターし、2種類のカーブ(三振を取るカーブ・ストライクを取るカーブ)やフォークボールを習得した[6]。それらの球を武器に6月中旬に開催された三河地区の公式戦では4被安打・1与四球・10奪三振・自責点1点の8回コールドゲームで完投勝利を収め、後にドラフト1位で指名した中日の担当スカウト法元英明は当時から平田を「高校生であれほど速い球を投げる投手はいない。体格も良く体にバネがある」と高く評価していた[6]

同大会では1回戦・県立知多東高校戦(半田市営半田球場)でプロ野球12球団のスカウトたちが見守る中、最速145km/hの速球を投げるなどして相手打線を圧倒し、4回に3安打を浴びて2失点を許したものの10奪三振を奪う好投を見せ、チームも4対2で勝利した[12]。4回戦・県立津島北高校戦(豊橋市民球場)では初回いきなり先頭打者へ直球で四球を与えてしまい「上半身と下半身がバラバラになっている」と自打者からセットポジションに切り替えて投げた[13]。結果、自己最多タイとなる公式戦3度目の17奪三振を記録して完封勝利を収めたが、この時は試合後に「試合前にも監督からコントロールを重視するように言われたからその通りに投げた。厳しい試合展開で勝つことしか頭になかったから記録は意識していなかった」と述べたほか[14]、自身の投球結果を「制球だけ気を付けて投げたのにこんなに三振が取れるとは、球が手元て伸びていたからだろう」と分析した[13]。準々決勝・東海工業高校戦(名古屋市瑞穂公園野球場)では[15]1回表・2番打者相手にカウント1-3と一時制球を乱したが、ベンチから「力を抜け」という声を聞いてからは力みを抜いて投げ相手の裏をかく投球により2被安打・10奪三振で相手打線を完封し[16]、チームも8対0で7回コールド勝ちした[15][注 1]。しかし続く準決勝・享栄高校戦(瑞穂球場)[注 2]では8回まで相手打線を完封し[19]、同大会中の連続無失点イニング記録を34まで伸ばしたが[7]、1点リードで迎えた9回裏に走者1人の場面で平田と投げ合った享栄の投手・谷川輝幸を打者として迎えたところ、渾身の内角低め直球を打たれて左翼席へ飛び込む逆転サヨナラ2点本塁打を被弾しサヨナラ負けを喫した[19]。この痛恨の一球に平田はマウンド上で泣き崩れ、試合終了の挨拶を終えてベンチに戻る最中にもグラウンドに突っ伏して号泣した[20]。後藤監督は試合後に「追加点のチャンスに的確な指示を出せず、最後まで平田に負担をかけて子供たちに申し訳ないことをした」と自らを責め、泣き崩れる選手たちに「土壇場で悔しい思いをしたから、これからもたった一球の大切さがわかるだろう」と話した[21]

惜しくも夏の甲子園出場を逃したが、34イニング連続無失点のほか6試合38イニングで52奪三振を記録したその剛腕は早くからプロ野球界から注目を集め[1]、『中日新聞』記者・村井博美は「もっと大きな舞台(プロ野球)であの速球を見ることができそうだ」と期待を綴った[22]。また懸案事項だった右肩腱板損傷についても「『その後遺症は100%ない』と言ってよい」(巨人・関東孝雄スカウト)段階まで回復しており[7]、同年のドラフト会議を控えて高校生では宇和島東高校平井正史とともに「ドラフト1位候補」と高く評価されていた[1]。一方で平田本人は地元・愛知県名古屋市に本拠地(ナゴヤ球場)を置く中日ドラゴンズへの入団を熱望しており[1]、ドラフト会議前(後述のプロ球団接触解禁後)には中日以外にも近鉄バファローズヤクルトスワローズ読売ジャイアンツ(巨人)やオリックス・ブルーウェーブなど7球団が訪れて対面調査を行ったが[23]、平田は挨拶に訪れた7球団のスカウトに対し[24]「プロ野球でプレーしたいが地元の中日以外は入団拒否する。中日で活躍する自分の姿を家族・周囲の人に間近で見てもらいたい」と公言し[1]、中日以外の球団からの勧誘はすべて断っていた[23]。その相思相愛ぶりに対し巨人・伊藤菊雄スカウトは「『平田君が中日で決まり』なんて誰が決めたんだ」と引き下がらない姿勢を見せていた一方[25]、獲得を狙っていた球団の中には豊田大谷高へ電話で「平田君は中日に行くのが一番いい」と「獲得断念」の意向を伝えた球団もあったほどだった[23]

一方で中日球団としても過去に槙原寛己大府高校→巨人)・工藤公康名古屋電気高校西武)・松井秀喜星稜高校→巨人)と地元の逸材選手獲得を逃し続けた苦い経験があったことから、早い時期から地元出身でかつ「将来性はもちろん即戦力の期待もかかる」逸材だった平田に関心を示していた[1]。そのため1993年10月7日までに「ドラフト会議で平田を1位指名する」と方針を決めた中日球団社長・中山了は「逆指名してくれて非常に嬉しい。それに対し誠意を示す意味でも1位指名する。スカウトからは『地元出身選手では星稜・小松辰雄以来の逸材』と報告を受けている」とコメントしたほか、当時の監督・高木守道も「1位で指名しなければ他球団に奪われてしまう選手。即戦力として計算できるだろう」とコメントしていた[1]

平田は1993年10月14日に愛知県高等学校野球連盟(愛知県高野連)宛に郵送した「野球部員登録抹消届」を受理されたことでプロ野球球団との接触が可能になり、スカウトの事前調査に応じることが可能な身分となった[26]。その5日後となる1993年10月20日には豊田大谷高校で中日・法元英明スカウトが12球団で最も速く平田と交渉して「1位指名する」と伝え、平田も改めて「中日でプレーしたい。他球団から指名がないことを祈っている。仮に他球団が指名権を獲得した場合は入団拒否する」と中日入り希望をアピールした[27][注 3]。さらに1993年11月5日に豊田大谷高で中日・岡田英津也球団編成部長から初めて挨拶を受け「君はこれから大きく伸びる。頑張ってほしい」と激励された際にも改めて「中日以外は入団拒否」の意向を伝え[23]、1993年11月17日に岡田編成部長を始め中日球団のスカウト12人・伊藤一正球団代表が出席して名古屋市中区内の「クラブ東海」で開かれた編成会議では改めて「平田を1位・鳥越裕介明治大学)を2位で指名する」と確認された[28]。そしてドラフト会議前日(1993年11月19日)に高木監督・中山球団社長も同席した上で東京都港区内にて開かれた編成会議で中日球団は最終的に「1位平田・2位鳥越」の指名を最終確認した[29]

ドラフト会議当日(1993年11月20日)まで「オリックスが強行1位指名する可能性がある」と囁かれてはいたが[24]、オリックスは結局平田を断念して宇和島東の投手・平井正史を1位指名した[3]。それまで記者会見場・体育館で緊張しつつテレビ中継の画面を見つめていた平田は気に掛けていたオリックスが平井を指名した際には表情を緩め、次いで自身が中日から指名を受けると笑顔とともにガッツポーズした[3]。結局ほか11球団から重複指名を受けず中日の単独指名が確定した直後、平田は記者会見で「落合博満さん[注 4]が仮に他球団へ移籍すれば対戦機会が巡ってくるので、その時は内角球で思い切り勝負したい。そのために早く一軍に上がりたい」とコメントした[3]。中日球団にとって地元出身の高校生ドラフト1位指名選手は1986年近藤真一(享栄高校)以来だった[4]

プロ入り後[編集]

1994年[編集]

ドラフト会議前から「中日は打撃が素晴らしいチームだから強力なバックに支えられて投げてみたい。腰を痛めた時に励みにした背番号だから背番号は11番が欲しい」と公言しており[24]、1993年12月3日には初めての入団交渉に臨んだ[30]。そして同日、自宅で第1回交渉に臨むと推定契約金1億1,000万円・推定年俸840万円で契約合意して仮契約を締結し、背番号も希望通りの11番に決まった[11]。契約金1億1,000万円は当時球団史上最高額で、球界全体でも高校生としては巨人・松井秀喜1992年ドラフト1位)に次ぐ高い評価だった[11]。仮契約後に豊田市内のホテルで記者会見した際には高校生ながら「開幕一軍を目指す。そのために自主トレが始まるまでランニングで下半身を強化する」と宣言した上で「目標は(当時・中日のエースだった)今中慎二さん。今中さんのように常に2桁勝利できるような投手になりたい。(巨人に移籍した)落合さんと対戦する機会があったら内角真っすぐで勝負したい」と抱負を述べた[11]。そして1993年12月22日には「クラブ東海」にて同じくドラフトで指名を受けて入団した鳥越・笹山洋一遠藤政隆工藤友也の4人とともに入団発表に臨み、会見で「やっと気持ちが落ち着いた。ノーラン・ライアン投手のように長く野球ができて、年をとっても速球で勝負できるような選手になりたい」と決意を述べた[31]。またこの時までには高木政権下で初めて春季沖縄キャンプに参加することが内定していたが「目標はあくまで開幕一軍だ。今も毎日5kmのランニングを続けている。キャンプ初日から投げられるように頑張る。キャンプでうまく調整できれば直球・カーブはプロでも通用すると思う。来年3月に地元・豊田市(豊田市運動公園野球場)で予定されているオープン戦では1イニングだけでも投げたい」と述べた[31]。過去の高校生新人選手では小松辰雄のように「球速ならプロの投手にも負けない」と豪語した選手はいたが、入団発表の席で「開幕一軍」を口にした高卒新人は「おそらく平田が初めて」だった[32]。しかしその一方で沖縄春季キャンプの切符獲得が微妙な情勢となった際には「プロは球速だけでは通用しない。球の切れ・繊細な制球力も必要だから鍛えぬくしかない」と自分を牽制するかのような控えめな言葉も口にしており、今中も当時の平田について「プロとして大きな目標を持つことは大切だが、平田はまだその根拠がない。今は焦らないことだ」と述べていた[32]

その後、平田ら新人選手5人は1994年1月6日に名古屋市西区内の合宿所へ入寮し[31]、翌7日 - 9日にかけて屋内練習場で初の自主トレに臨んだ[33]。1994年2月1日に沖縄県石川市(現:うるま市)で中日球団の春季キャンプ( - 1994年3月3日)が開始されたが[34]、平田は高校の卒業試験のため沖縄入りが2月5日まで遅れ、第2クール初日の[35]翌2月6日から一軍練習に合流した[36]

しかし春季キャンプでは周囲から「ゴールデンルーキー」と持ち上げられていた一方、高卒新人ながらいきなり1人で一軍キャンプに参加することとなったが故の精神的な疲労が肉体疲労にまで及び、集中力を奪われていた平田は「毎日『もう1人同級生が欲しい』と思う」とこぼしていたほか、キャンプ中に行われた大韓民国(韓国)・KBOリーグLGツインズとの練習試合中にはバックネット裏でふんぞり返ってアイスコーヒーを飲んでいたところ、投手コーチの水谷啓昭から「みっともない。もう帰れ」と厳しく叱咤される姿が『中日新聞』で報道されていた[37]。この話を報じた『中日新聞』記者・末次秀行の取材に対し水谷は「先輩の投球や相手の攻め方など、平田には見るべきものがたくさんあるはずだ。いくら素質があっても今の姿勢ではダメだ」と厳しい評価を下しており、末次も「平田はブルペンで空気を引き裂くような球を投げて大物の片鱗を見せているが、一軍キャンプに参加している投手22人では最も落ち着きがなく、球もばらついている。プロ野球で生きていくために一番大切なことは恥をかかないことだ。誰もができることをおろそかにすればいつか大恥をかくことになる。1年目は平田と同じ境遇だった(かつてのエース)小松は『(プロ野球で大成するためには)まず1年生の仕事(=体力づくりなどの下積み)をしっかりこなすことだ』と言う」と述べていた[37]。またプロ入り後に髪の毛を伸ばしたところ、コーチから「切ってこい」と一喝されたことで戸惑いを感じ、それ以降も練習・寮生活で年長者に気を遣うことが苦痛になっていた[38]

平田はキャンプ終了後も沖縄で調整を続けていたが肩の痛みを訴え、首脳陣から「体作りができていない」と判断されて1994年3月7日には三軍でトレーニングを積ませることとなった[39]。その後、1994年3月21日には二軍(ファーム)の交流試合として開かれた中日二軍ウエスタン・リーグ)対巨人イースタン・リーグ)戦で「プロ初登板」を果たし、最速146km/hの速球で2回1被安打に抑え、対峙した松井秀喜も左飛に打ち取った[40]

1994年3月25日には二軍から離れて一軍主力組に合流し、翌26日に地元・豊田市の豊田市運動公園野球場で開かれたオープン戦対オリックス・ブルーウェーブ戦で先発・今中慎二の後を継いで2番手投手として登板した[40]。この「一軍デビュー」前には「地元という意識はない。最後まで入団を誘ってくれたオリックス相手に無様な投球はしたくない。一軍入りを考えると力んでしまうので無心で投げたい」と抱負を述べていたが[40]、力みから制球が定まらなかった[41]。5回は2死を取るも一・二塁の場面で田口壮に四球を与え[42]、続く鈴木一朗(開幕直前に登録名を「イチロー」へ変更)から満塁本塁打を被弾した[43]。この満塁本塁打は後に日本プロ野球(NPB)のみならずメジャーリーグベースボール(MLB)で活躍した打者・鈴木(イチロー)にとってはオリックスの新監督・仰木彬ら首脳陣から高い評価を取り付けるとともに「イチロー」への登録名変更のきっかけともなった一方[43]、地元の先輩からプロの洗礼を浴びせられ「みんなが見ているのに情けない」と落胆した平田にとっては「蟻地獄に思えるもの」だった[42]。この日は直球も139km/h止まりで[42]、さらに6回には岡田彰布から高めの速球を狙い撃ちされソロ本塁打を被弾して敗戦投手となったが[41]、大量失点後の6回にはキャブレラ(フランシスコ・カブレラ)相手に捕手から出されたフォークボールのサインを拒否し、インローに投げて三邪飛に打ち取ったことで『中日新聞』記者・斎田太郎から「確かなことを学んだ」と評された[42]。また中利夫はこの試合を報じた『中日新聞』朝刊で「プロの洗礼は気にする必要はない。鈴木にはど真ん中、岡田にも高めの真っすぐと力んで手投げになったことによる制球ミスで本塁打を被弾したが、それ以外は打者を力で封じた。徹底的に走り込んで体作りをすれば制球力の課題を乗り越えられるはず。焦らず後半戦からに照準を合わせれば良い」と評価していた[44]

結局、目標としていた開幕一軍入りは叶わずほかの新人4人とともにファームで開幕を迎えることとなり[45][注 5]、後述の二軍合流まではファームの練習で打撃投手を務めつつ三軍でランニング・投球フォーム固めなどの調整を続けていたが、大幅な軌道修正を強いられたことで「平田の胸の内に潜んでいた『過信』を取り除くこと」(稲葉光雄二軍投手コーチ)から始めざるを得なくなった[46]。そのため単調な基本練習の繰り返しとなったことで平田自身も飽きを感じるようになり、「1日の練習でどこか手を抜く」と感じた稲葉から「1秒1秒を大切にしろ」と叱咤されることも多かったが、4月に入ると足腰が鍛えられ体重移動の無駄がなくなったことで球速・球の切れのみならず精神面においても磨きがかかり、稲葉から二軍昇格の推薦を得ることができた[46]。二軍昇格直前には豊田市運動公園野球場で打撃投手を務めたが、このころには水谷寿伸二軍投手コーチから「球が生き生きとしていて『早く試合で投げさせてくれ』と訴えているようだ。気持ちの伝わってくる球を久しぶりに見た」と評価されていたほか、このころまでに入団時から体重を11kg減量していた平田自身も「今までずっと基本練習の繰り返しだったが、(打撃投手は実戦とは違い「打者に打たせる仕事」とはいえ)打者に向かえたことは嬉しかった」と述べていた[46]

5月24日には三軍から二軍に合流し、同日からのウエスタン・リーグ(ウ・リーグ)で開催された対阪神タイガース3連戦にて実戦デビューを果たすこととなった[46]。その後は二軍でチーム唯一の規定投球回数到達を果たし[47]、18試合82回2/3イニングを投げて3勝6敗・防御率4.03の成績を残してウ・リーグ投手成績ランキング11位(全14人)に入った[48]

7月17日に札幌市円山球場で開催されたジュニアオールスターの全ウエスタン代表選手として選出された[49]。そして7月22日にはドラフト2位の鳥越や中山裕章井上一樹とともに一軍選手登録(一軍40人枠入り)を果たし[50]、初先発の6日前に先発を言い渡された[51]。8月9日に出場選手登録されると[52]、8月11日の対ヤクルトスワローズ第20回戦(ナゴヤ球場)で捕手・中村武志とバッテリーを組み一軍公式戦初先発・初登板を果たした[53]。しかし臨んだ初先発のマウンドではわずか1/3回を投げただけでヤクルト打線相手に4失点してKOされ、同年はそれ以降一軍登板できなかった[47]。この時の平田の投球成績は「3与四球・4失点・防御率108.00」で[54]、チームはその後3回にも追加点を許し5点差に突き放されるがその後反撃して5対5の同点で延長戦に持ち込み、同点の延長12回裏に大豊泰昭アロンゾ・パウエルがヤクルト・高津臣吾を打ち崩してそれぞれ出塁すると[53]、1死一・二塁で清水雅治が遊撃ゴロに倒れたが[55]、併殺を狙ったヤクルトの二塁手・新井潔が一塁へ悪送球した隙に走者・大豊が生還してサヨナラ勝利を収めた[53]。この試合では平田本人が「緊張して何が何だかわからなかった。自分の球はあったような、なかったような…」と形容するほど散々なもので、速球は走らず変化球もすっぽ抜けていたが、ベンチに引き上げてから自分の大量失点を取り戻そうとするナインを見て「先輩が僕に教えてくれている」と感じた[51]。そして延長戦でチームがサヨナラ勝利を収めるとバッテリーを組んだ中村から「おい、負けが消えたな。お前はラッキーボーイだ」と声をかけられ、「初めてのプロの味」として初登板のほろ苦さとともにチーム一丸となった勝利の甘みを味わうこととなった[51]

閉幕後には『中日新聞』紙上にて「持ち球であるストレートの球威を失ったことが気がかり。下半身の強化など徹底した体づくりが必要だ」と評価され[56]小松辰雄コーチの下で練習に取り組んだ[38]。この秋季キャンプでは「高校時代の投球を取り戻すこと」が目標だったため投球フォーム改造は行われなかったが、その後平田は結果が出ないとフォーム改造を余儀なくされたことで最適なフォームを見い出せずプロ野球界を去ることとなった[38]

1995年以降[編集]

プロ2年目の1995年2月1日に開幕した沖縄キャンプでは「下半身の強化に成功して課題の体重移動が楽になり、球筋が定まった。抑え気味でも球速140km/hを超えるほど」の球威を身に着けた[57]。その球威はブルペン捕手を務めた加藤安雄コーチが受け損ねてミットの網が切れるほどで、同じように高校生でドラフト1位指名を受けて入団・活躍した鈴木孝政・小松辰雄両投手コーチからも「今期は一軍でやれる」と高く評価されており『中日新聞』紙上では「キャンプ初日から羽ばたき大活躍の予感を漂わせている」と報道された[57]。このことから投手コーチからは「いの一番に一軍に昇格させたい投手」と高く評価されていたが、同年に新しく投手コーチに就任した鈴木は「確かに(前年とは)別人になっておりスター性もある。中日の目玉になれる素材だが、まだ覚えさせるべきことがたくさんある。半端なまま一軍に送り出すと昨季の繰り返しになるから二軍で経験を積ませるべきだ」と評価していた[58]

一方で同年開幕前には今中慎二とともに春の自主トレを行ったが、その際に今中から「お前は危機感も貪欲さも欠けている。俺は2年目(1990年)に隣で(当時ドラフト1位の新人)与田剛さんが投げていた球を見て『これはいかん』と緊張した。『今年が勝負』ということがわからないのか!」と叱咤されていた[59]。結局は開幕時点で2年目にして初の一軍40人枠入りを果たし[60]、1995年4月27日には一軍に合流した[59]。しかし当時は腰痛で投球どころかウォーミングアップすらできない状態で、投手コーチ・高橋三千丈が「ここまで(状態が)悪いなんて知らなかった」と絶句するほどだったためその日の練習を休み、翌日には再び二軍に戻ると5月5日に故障者選手登録された[59]。1995年7月までの1年半で平田を指導したコーチは10人に上っていたが、当時の中日は育成への指針のみならず一軍・二軍間の連携すら取れておらず、平田が育たない苛立ちは互いの批判にすり替わっていた[59]。同時期に山部太(ヤクルト)・河原純一(巨人)・波留敏夫横浜ベイスターズ)・藪恵壹(阪神)とセ・リーグ各球団に新戦力が台頭していた一方、中日は彼らと対比されるはずの存在だった平田が戦力になっていない状態で、中山球団社長は後半戦に向けて一軍首脳陣入れ替えを通告した際に『中日新聞』(中日新聞社)記者から「フロントにも重い責任があるのではないか?」と尋ねられても「新人が戦力になっていないからだ」と述べていた[59]。同シーズン前半戦では二軍ウ・リーグで2勝3敗と勝ち負けを繰り返しており、7月12日には完投勝利を挙げたが最後の打者に投じた直球は131km/hしかなかった[59]

かつて広島東洋カープで監督を務めた古葉竹識は『中日新聞』の取材に対し「広島ではあり得ないようなことが中日で起きている。広島は若手育成のために球団が一体となっており、明確な目標・教える側の忍耐がしっかりしており、一・二軍の連携もうまく取れている(中日とは異なり、フロントから報告されたデータを基に一・二軍合同会議で練習方針を決めて同じ選手に同じコーチが指導し続ける)が、中日はそれができていない(フロントは選手を獲得して終わり、現場は指名選手をただ待つだけで一・二軍の連携も取れていない)。教えて崩してしまったバランスはなかなか元に戻らない」と指摘していた[59]

1995年9月7日にはナゴヤ球場で開かれた対阪神タイガース第21回戦で中村とバッテリーを組み先発登板したが[61]、1回表の立ち上がりで和田豊星野修から連打を浴びるとスコット・クールボーに変化球を打たれて左翼席へ飛び込む21号本塁打を被弾した[62]。2回表には星野から右前適時打を浴びると3回表には2死から投手・竹内昌也に3点本塁打を浴びるなど大炎上し[62]、3回8被安打2被本塁打8失点と散々な成績だった[61]。その後中日は阪神の先発・竹内(同日の勝利投手)を打ち崩して6回までに7点を得たが[62]、最終的にチームは9対7で敗戦して同シーズン70敗目を喫し、平田も敗戦投手となった[61]。同日の最高球速は136km/hと入団当時の面影はまったくなく、この凄惨たる有様に平田本人は「言葉もない」とうなだれ、期待を裏切られた島野育夫監督代行[注 6]は「力がないなら、ないなりに制球に気を付けるなどすべきだろう。『投げて打たれた』では話にならない」と立腹した[62]。当時の平田を村田広光トレーニングコーチは「入団時から体重が10kgも減って体形が変わっている。一回り大きくなるはずがそうならないのは精神的なものだ。もっとがめつくならないと球もいかない」と評しており[62]、結果的にこれが最後の一軍登板となってしまった。同年は二軍ウ・リーグでも18試合に登板して104回1/3イニングを投げたが3勝5敗・防御率3.97(投手成績ランキング15人中11位)の成績に終わり[63]、オフの11月28日には前年比160万円減額の年俸800万円で契約更改した[64]

同年秋の黒潮リーグ・秋季キャンプではスピード・球威とも徐々に本来の姿へ近づけ、2年間の遅れを取り戻すとともに今中・山本昌の両左腕に次ぐ先発投手が不足していた一軍投手陣に割って入ることが期待されていたが[65]、監督が星野仙一に交代した1996年は「不言実行」をモットーに先発ローテーション入りを目指したものの開幕前に脇腹を痛め[66]、プロ入り3年目で初の一軍登板なしに終わった[67]。同年はオーバースローからサイドスローに転向したが、球速は全盛期より10km/h以上低下し[54]、二軍でも22試合に登板・99回2/3イニングを投げて2勝8敗・防御率3.97と大きく負け越し、同シーズン閉幕後には推定年俸750万円(前年比50万円減額)で契約更改した[67]

1997年シーズン前は自らオフを返上してナゴヤ球場で自主トレを続けたが[68]、同年も二軍で9試合・32回を投げて0勝3敗の成績に終わった[69]。同年オフの契約時には台湾中華職業棒球大聯盟へ留学する話が出たほか[70]、年俸は前年比50万円減額の700万円となった[69]。またプロ入りから着用していた背番号11も同い年である川上憲伸(明治大学から同年ドラフト1位)の入団に伴い剥奪され、12月18日に背番号を17に変更されることが発表された[71]

1998年は開幕直後の4月25日に韓国KBO・LGツインズから新外国人として李尚勲(登録名:サムソン・リー)が加入した際、同年から着用していた背番号17をサムソンの背番号に充てるため再び剥奪されて60番に変更された[72]。同年は二軍ウ・リーグで7試合に登板して1勝0敗・防御率1.69の成績を残したのみで[73]、10月6日には北野勝則猪俣隆両投手とともにナゴヤドームで児玉光雄球団代表補佐から戦力外通告を受けた[5]。その後は近鉄バファローズ(1999年シーズン開幕前に「大阪近鉄バファローズ」へ球団名変更)の秋季キャンプで同球団の入団テストを受けて合格し[74]、同年12月18日に同じ秋季キャンプで入団テストに合格した前西武・谷口功一とともに近鉄球団への入団が発表された[75]

1999年シーズンは年俸600万円・背番号62で野球人生を賭けて臨んだが[76]、新天地・近鉄でも一軍出場はならず、同年10月6日に大森剛佐藤裕幸渕脇芳行谷内聖樹中川隆治田中宏和の6選手(野手3人・投手3人)とともに戦力外通告を受けた[77]。12月2日に日本野球機構(NPB)コミッショナー事務局から自由契約選手として公示され[78]、同年限りで現役を引退した。

田口元義は著書『中日ドラゴンズ ドラフト1位のその後』(宝島社・2014年)にて「現役引退後は愛知へ戻り一般人として第二の人生を歩んでいるらしい」と綴っている[54]

選手としての特徴・人物[編集]

崇化館中学校の卒業文集には「将来はプロ野球選手になりたい」と書いていたほか[6]、高校時代に平田を指導した監督・後藤篤はドラフト直前に『週刊ベースボール』の取材に対し「平田は金・出場機会など現実的な視点を抜きに、幼少期から純粋な気持ちで『中日へ行きたい』と考えていた」と証言した[25]

高校時代は長身から投げ下ろす最高時速148km/hの直球(速球)が武器で[1]とも甲子園未出場ながら全12球団が獲得に向けて調査したほどの逸材だった[4]。高校時代には目標とする選手として巨人・桑田真澄の名前を挙げていたほか[6]ノーラン・ライアンも目標とする選手として名前を挙げており[31][4]、高校時代にはライアンの著書を意識改革の参考にしていたほか[6]、ドラフト直前には「伊良部秀輝さん(千葉ロッテマリーンズ)から“和製ライアン”の称号を奪いたい」と抱負を述べていた[25]

『中日ドラゴンズ '94ファンブック』では平田が見開き1面+1ページの計3ページを使い「逸材!将来のエース」の見出しで取り上げられており、「『誰々2世』と呼ばれることを嫌い自らのアイデンティティを強く主張する姿はまさに『投手になるために生まれてきたような性格』の持ち主だ」と評されていたほか、平田自身も「ライアンのように息長く活躍して100勝100セーブを達成したい」と抱負を述べていた[4]

平田を担当したスカウト・法元英明は「地元でこれだけの逸材はいない。甲子園に出場した投手より実力は上だ」と高く評価しており[27]、「肘の出方・腕のしなり・下半身の使い方を鍛えればまだ球速は早くなる。将来は球速150km/hも夢ではない」と期待を寄せていたが[7]、1994年シーズン終盤にはフォームを見失い130km/h台の球速を出すことがやっとの状態だった[79]。変化球は高校時代からの持ち球だった2種類のカーブ(三振を取るカーブ・ストライクを取るカーブ)やフォークボール[6]チェンジアップに加え[44]、プロ入り後にスライダーを習得した[46]

一方で田口は著書にて「平田がプロで大成できなかった理由の1つはプロ向きの性格でなかったことだ。年上の人間ばかりに囲まれ、気を遣いながら練習・寮生活を送ることが苦痛になっていた。またプロ入り後に体のキレを失ったことに加え、高校時代の投球を取り戻すことを目標に1年目秋季キャンプでは小松コーチの下でトレーニングに取り組んだが、結果が出ないとフォーム改造を余儀なくされフォームを見失った」と述べている[38]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1994 中日 1 1 0 0 0 0 0 0 -- ---- 7 0.1 2 1 3 0 0 0 0 4 4 108.00 15.00
1995 1 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 19 3.0 8 2 2 0 4 0 0 8 8 24.00 3.33
通算:2年 2 2 0 0 0 0 1 0 -- .000 26 3.1 10 3 5 0 4 0 0 12 12 32.40 4.50

背番号[編集]

  • 11 (1994年 - 1997年)
  • 17 (1998年開幕 - 同年4月24日)
  • 60 (1998年4月25日 - 同年終了)
  • 62 (1999年)

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 東海工業高校には当時、平田より1学年下(2年生)の井本直樹(社会人野球を経て2000年ドラフトで中日から3位指名)がいた[17]
  2. ^ 享栄高校には当時平田と同い年で同年のドラフト会議にてオリックスから4位指名された福留宏紀がおり、福留はプロ入り後に「今は話題度で平田に負けているが、数年後に再戦した際には負けたくない」と抱負を語っていた[18]
  3. ^ 『中日新聞』報道では「社会人野球に進む」(1993年10月21日朝刊)と報道された[27]一方でドラフト会議前日(1993年10月19日)には「万が一他球団が交渉権を獲得したら1年間浪人する」と発言していた[24]。また『週刊ベースボール』(ベースボール・マガジン社)の取材に対しては「社会人からの勧誘はすべて断った。中日に入れなければ1年間浪人して翌年のドラフトを待つ」と宣言していた[25]
  4. ^ 落合は当時フリーエージェント(FA)権を取得して去就が注目されており、その後権利を行使して巨人へ移籍した。
  5. ^ 当時開幕一軍スタートとなった新人選手17人中高卒新人選手は横浜・大家友和のみで、中日・巨人で一軍スタートした新人選手は皆無だった[45]
  6. ^ 同年の中日はシーズン途中で高木が監督を辞任し、監督代行を務めたヘッドコーチの徳武定祐もまたシーズン途中で休養したため島野が同シーズン閉幕まで「監督代行の代行」を務めていた。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k 中日新聞』1993年10月8日朝刊第一運動スポーツ面27頁「ドラフト 剛腕・平田1位指名へ 中日、即戦力 未来のエースとり 本人も熱望 豊田大谷高…地元の逸材」
  2. ^ 『'94プロ野球 12球団全選手百科名鑑』第18巻第5号(通算:第191号、1994年3月号)、日本スポーツ出版社、1995年3月15日、38頁。
  3. ^ a b c d 『中日新聞』1993年11月20日夕刊第一社会面13頁「豊田大谷高の剛腕・平田投手“夢”ストレート 中日指名 思わずガッツポーズ」
  4. ^ a b c d e f 『中日ドラゴンズ '94ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)〈中日ドラゴンズファンブック〉、1994年3月16日、4頁。ISBN 978-4806202714
  5. ^ a b 『中日新聞』1998年10月7日朝刊第一運動スポーツ面25頁「中日 『戦力外』まず3人 平田、北野、猪俣に通告」
  6. ^ a b c d e f g h i j k 『中日新聞』1993年7月9日朝刊第二運動スポーツ面26頁「車の街に剛腕球児あり 豊田大谷・平田 うなる148キロ」
  7. ^ a b c d 「高校野球特集 地方大会で消えた「BIG4」の気になる“これから” プロ志望の147キロ右腕に12球団スカウトも「ドラフト1位」の太鼓判! 平田洋[豊田大谷]」『週刊ベースボール』第48巻第35号、ベースボール・マガジン社、1993年8月23日、 115頁。 - 同特集記事で平尾博司埼玉県立大宮東高校)・高橋由伸桐蔭学園高校)・岡島秀樹東山高校)とともに取り上げられている。
  8. ^ a b c 『中日新聞』1992年7月29日朝刊名古屋市民総合版17頁「92夏・白球を追って/ “ブルドッグ野球”確かな一歩 豊田大谷の後藤監督 何よりの土産8強 王者に真っ向 さわやかに散る」(記者:村井博美)
  9. ^ 『中日新聞』1992年7月20日朝刊名古屋市民版16頁「高校野球愛知大会 第4日 岩瀬(西尾東)ノーヒットノーラン 豊田大谷の平田、17奪三振で完封」
  10. ^ 『中日新聞』1992年7月26日朝刊愛知県内総合版17頁「高校野球愛知大会 第10日 西三河対決、豊田大谷に軍配」
  11. ^ a b c d e 『中日新聞』1993年12月4日朝刊第一運動スポーツ面27頁「『中日・平田』が誕生 球団史上最高 契約金1億1000万円 開幕一軍を力強く宣言 背番号『11』」
  12. ^ 『中日新聞』1993年7月19日東海総合版15頁「高校野球愛知大会 第4日 豊田大谷9回に底力 エース平田は10三振奪う 半田球場 1回戦 豊田大谷4-2知多東」
  13. ^ a b 『中日新聞』1993年7月25日第12版第二運動スポーツ面24頁「全国高校野球地方大会 24日 快腕平田(豊田大谷)17奪三振 制球重視でも打者ナデ切り」
  14. ^ 『中日新聞』1993年7月25日名古屋市民版16頁「高校野球愛知大会 第10日 本人も驚く快記録 豊橋市民球場 4回戦 豊田大谷4-0津島北」
  15. ^ a b 『中日新聞』1993年7月29日朝刊愛知県内総合版19頁「高校野球愛知大会 第14日 “夢”へ進撃豊田大谷 投打に東海工圧倒 瑞穂球場 準々決勝 豊田大谷8-0東海工(7回コールドゲーム)」
  16. ^ 『中日新聞』1993年7月29日朝刊愛知県内総合版19頁「一投一打 10奪三振で完封した豊田大谷・平田洋投手 力み消え右腕うなる」(記者:尾木信之)
  17. ^ 『中日新聞』2000年11月18日朝刊第二運動スポーツ面26頁「プロ野球ドラフト 2位洗平 即1軍宣言 竜8人指名 3位・井本 逆境越えた苦労人 『岩瀬さん手本に』」
  18. ^ 『中日新聞』1994年2月21日夕刊2面2頁「ゆうかんさろん/ ライバル平田と再戦に夢膨らむ」
  19. ^ a b 『中日新聞』1993年7月30日朝刊愛知県内総合版19頁「高校野球愛知大会 第15日 剛腕・平田に球運無情 谷川、劇的2ラン 享栄が9回サヨナラ 豊田大谷惜敗 瑞穂球場 準決勝 享栄2-1豊田大谷」
  20. ^ 『中日新聞』1993年7月30日朝刊愛知県内総合版19頁「平田、こらえきれず号泣」
  21. ^ 『中日新聞』1993年7月30日朝刊愛知県内総合版19頁「球児の詩 たった一球…砕けた“夢” 涙の豊田大谷ナイン 『あすから練習だ』成長の糧に、また挑戦」(記者:渡部圭)
  22. ^ 『中日新聞』1993年7月30日朝刊第12版第一運動スポーツ面25頁「快腕平田に無念幕切れ」(記者:村井博美)
  23. ^ a b c d 『中日新聞』1993年11月6日朝刊第二運動スポーツ面26頁「改めて“中日宣言” 豊田大谷高の平田 球団部長あいさつ」
  24. ^ a b c d 『中日新聞』1993年11月20日朝刊第二運動スポーツ面28頁「『中日だけと確信』 平田(豊田大谷高)気持ちは竜戦士」
  25. ^ a b c d 「11・20新ドラフトに揺れる男たち 浪人覚悟で夢の中日入り熱望 平田洋〈豊田大谷高〉」『週刊ベースボール』第48巻第48号、ベースボール・マガジン社、1993年11月1日。
  26. ^ 『中日新聞』1993年10月15日朝刊第一運動スポーツ面27頁「豊田大谷高の平田 野球部員登録抹消 高野連が受理」
  27. ^ a b c 『中日新聞』1993年10月21日朝刊第一運動スポーツ面23頁「平田(豊田大谷)への球団あいさつ 意中の中日 先陣『他球団指名権なら社会人へ』」
  28. ^ 『中日新聞』1993年11月18日朝刊第一運動スポーツ面29頁「1位平田、2位鳥越 3位は大型野手狙う 中日、編成会議で確認」
  29. ^ 『中日新聞』1993年11月18日朝刊第二運動スポーツ面28頁「平田、鳥越の指名最終確認 中日編成会議」
  30. ^ 『中日新聞』1993年12月3日朝刊第一運動スポーツ面27頁「平田きょうにも仮契約 中日1位」
  31. ^ a b c d 『中日新聞』1993年12月23日朝刊第一運動スポーツ面19頁「新鮮竜5人“戦誓” 平田『開幕一軍目指す』」
  32. ^ a b 『中日新聞』1994年1月17日朝刊第一運動スポーツ面25頁「94年竜ニューパワー(1) ドラフト1位 豊田大谷高 18歳 平田洋 焦らず鍛え抜く」
  33. ^ 『中日新聞』1994年1月8日朝刊第一運動スポーツ面23頁「中日“新鮮力” 平田ら5人 プロ第1歩 屋内練習場で自主トレ開始」
  34. ^ 『中日新聞』1994年2月1日夕刊3面3頁「プロ野球一斉にキャンプイン 竜戦士Vへ始動」
  35. ^ 『中日新聞』1994年2月6日朝刊第一運動スポーツ面25頁「卒業試験も終わった 平田『やるぞ』 沖縄入り」
  36. ^ 『中日新聞』1994年2月7日朝刊第二運動スポーツ面20頁「平田が合流 プロ“洗礼”動きは軽快」
  37. ^ a b 『中日新聞』1994年2月17日朝刊第三運動スポーツ面26頁「94年竜球の春/ 高校生ルーキー平田 “下積み”しっかりと」
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  41. ^ a b 『中日新聞』1994年3月26日朝刊第一運動スポーツ面25頁「オープン戦 26日 豊田(9000人) オリックス7-2中日」
  42. ^ a b c d 『中日新聞』1994年3月26日朝刊第一運動スポーツ面25頁「投攻守/ 地元マウンドで金縛り 痛恨2アーチ プロの“洗礼”」(記者:斎田太郎)
  43. ^ a b 特別取材班「安打製造機・イチロー伝説 中日とのOP戦満塁弾から始まった」『中日スポーツ中日新聞社、2018年12月28日。2019年8月13日閲覧。, オリジナルの2019年8月13日時点によるアーカイブ。
  44. ^ a b 『中日新聞』1994年3月26日朝刊第一運動スポーツ面25頁「中利夫の目 球に力あり体をつくれ」
  45. ^ a b 『中日新聞』1994年4月6日朝刊第一運動スポーツ面27頁「プロ野球 9日開幕 セ・パ一軍枠選手を公示 野中(テスト入団)・落合“サクラ咲ク” 全新人ファーム始動 フォーム改造森田無念」
  46. ^ a b c d e 『中日新聞』1994年5月24日朝刊第一運動スポーツ面27頁「中日のルーキーたちは今 平田、さあ実戦デビュー」(記者:末次秀行)
  47. ^ a b ホームラン (1995, p. 38)
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  50. ^ 『中日新聞』1994年7月23日朝刊第一運動スポーツ面25頁「中日・平田が一軍 セ・パ合計6新人昇格 両リーグ公示」
  51. ^ a b c 『中日新聞』1994年8月12日朝刊第一運動スポーツ面21頁「平田ほろ苦デビュー サヨナラ歓喜に胸熱く」(記者:末次秀行)
  52. ^ 『中日新聞』1994年8月10日朝刊第12版第一運動スポーツ面21頁「セ・リーグ公示(9日)」
  53. ^ a b c d 『中日新聞』1994年8月12日朝刊第一運動スポーツ面21頁「セ・リーグ第19節11日 ナゴヤ・夜(35000人) 中日6-5ヤクルト 中日12回サヨナラ勝ち 5点差大逆転 首位に5差接近」
  54. ^ a b c 田口 (2014, p. 110)
  55. ^ a b 朝日新聞』1994年8月12日東京朝刊第14版第一スポーツ面21頁「中日6-5ヤクルト 中日、12回サヨナラ勝ち 巨人3連敗 5ゲーム差 ヤクルトが単独最下位」
  56. ^ 『中日新聞』1994年10月21日夕刊3面3頁「プロ野球 ルーキーこの1年 大きな期待 大きな壁 阪神・藪先発ローテ入り 中日・平田体づくりが必要 ダイエー・渡辺秀スライダー抜群」
  57. ^ a b 『中日新聞』1995年2月2日朝刊第一運動スポーツ面25頁「プロ野球キャンプイン 若竜気合 ベテラン闘志 平田 抑えても140キロ超 ミットも破る…大活躍の予感」
  58. ^ 『中日新聞』1995年2月16日夕刊3面3頁「鍛える新コーチ(5) 中日・鈴木孝政 投手王国へ夢 心の壁に挑む」(記者:橋本和男)
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  60. ^ 『中日新聞』1995年4月4日朝刊第一運動スポーツ面19頁「野口、平田ら若竜“合格”」
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  62. ^ a b c d e 『中日新聞』1995年9月8日朝刊第一運動スポーツ面29頁「阪神9-7中日 先発・平田8失点KO」
  63. ^ ホームラン (1996, p. 215)
  64. ^ 『中日新聞』1995年11月29日朝刊第一運動スポーツ面27頁「中日“厳冬”更改始まる 若手 20%以上減が続出」
  65. ^ 『中日ドラゴンズ '96ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)〈中日ドラゴンズファンブック〉、1996年3月13日、47頁。ISBN 978-4806203131
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  69. ^ a b 『'98プロ野球 12球団全選手百科名鑑』第22巻第4号(通算:第236号、1998年3月号)、日本スポーツ出版社、1998年3月31日、105頁。
  70. ^ 『'98プロ野球選手写真名鑑』日刊スポーツ出版社〈日刊スポーツグラフ〉、1998年4月18日、55頁。ISBN 978-4817205421
  71. ^ 『中日新聞』1997年12月19日朝刊第一運動スポーツ面21頁「彦野は8から57に背番号を変更」
  72. ^ 『中日新聞』1998年4月26日朝刊第二運動スポーツ面28頁「李尚勲投手、中日入団を発表 登録名はサムソン・リー 韓国でのニックネーム 『旧約聖書の長髪怪力』 背番号『17』チーム合流」
  73. ^ 『'99プロ野球 12球団全選手百科名鑑』第23巻第3号(通算:第246号、1999年3月号)、日本スポーツ出版社、1999年3月31日、177頁。
  74. ^ 『中日新聞』1998年11月13日朝刊第二運動スポーツ面32頁「プロ野球短信 平田はテスト合格【近鉄】」
  75. ^ 『中日新聞』1998年12月18日朝刊第三運動スポーツ面23頁「プロ野球短信 平田らの入団発表【近鉄】」
  76. ^ 『プロ野球ニュース イヤーブック 選手名鑑 '99』フジテレビジョンプロ野球ニュース』、ザ・マサダ、1999年3月5日、第1刷発行、188頁。
  77. ^ 『朝日新聞』1999年10月7日東京朝刊第二スポーツ面26頁「近鉄は大森選手らに戦力外通告(プロ野球短信)」
  78. ^ 『中日新聞』1999年12月3日朝刊第一運動スポーツ面35頁「小宮山ら104人自由契約 保留選手名簿など公示」
  79. ^ 『中日ドラゴンズ '95ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)〈中日ドラゴンズファンブック〉、1995年3月11日、50頁。ISBN 978-4806202912

参考文献[編集]

  • 『'95プロ野球 12球団全選手百科名鑑』第19巻第3号(通算:第202号、1995年3月号)、日本スポーツ出版社、1995年3月15日、38,215。
  • 『'96プロ野球 12球団全選手百科名鑑』第20巻第4号(通算:第213号、1996年3月号)、日本スポーツ出版社、1996年3月31日、91,215。
  • 『'97プロ野球 12球団全選手百科名鑑』第21巻第4号(通算:第225号、1997年3月号)、日本スポーツ出版社、1997年3月31日、49,215。
  • 田口元義『中日ドラゴンズ ドラフト1位のその後』宝島社別冊宝島〉、2014年3月21日、第1刷発行、108-111頁。ISBN 978-4800220929

関連項目[編集]

外部リンク[編集]