平岩外四

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平岩 外四(ひらいわ がいし、1914年(大正3年)8月31日 - 2007年(平成19年)5月22日)は、愛知県常滑市出身の財界人、経営者。東京電力会長、第7代日本経済団体連合会(経団連)会長(在任、1990年平成2年)12月21日 - 1994年(平成6年)5月27日)。

財界随一の読書家でもあった。最晩年に城山三郎と共著で『人生に二度読む本』(講談社、2005年)を出版した。

1987年(昭和62年)に名誉大英帝国勲章KBE受勲。1997年(平成9年)、レジオンドヌール勲章受勲。2006年(平成18年)秋の叙勲にて桐花大綬章を受章[1]

来歴・人物[編集]

6歳で父親を亡くし、母親に育てられる。愛知七中入学祝に母親から夏目漱石全集を贈られる。一族から大学進学を反対されるが、母親が反対を押し切り、旧制第八高等学校を経て、東京帝国大学法学部へと進学させた。1939年昭和14年)に大学を卒業。東京電灯(現在の東京電力)に入社した。

1941年(昭和16年)太平洋戦争陸軍に召集される。配属されたニューギニア戦線でジャングルを敗走し、飢えと熱病のため、平岩のいた隊は107名中、最後には生存者7名という地獄の体験をする。この体験は、平岩に人生を達観させる契機となった。終戦後会社に戻り、そこで木川田一隆の目にとまり、平岩は木川田を「経営についても人生についても終生の師」と尊敬するようになる。1971年(昭和46年)常務1974年(昭和49年)副社長を経て、1976年(昭和51年)10月東京電力社長に就任する。1984年(昭和59年)6月社長を退き、会長に就任した。1993年(平成5年)に相談役に就く。

1977年(昭和52年)以降、電気事業連合会会長、国家公安委員会委員、経済審議会会長、産業構造審議会会長、宮内庁参与に起用、なお参与は2006年(平成18年)5月まで務め、天皇皇后の助言役を務めた。

財界活動では、1978年(昭和53年)に経団連副会長に就任した。早くから、将来の経団連会長と嘱望されていたが、1986年(昭和61年)の経団連会長人事の際、新日本製鐵社長の斎藤英四郎に会長の座を譲った形となり、無欲さを賞賛された反面、財界には平岩人気から一部に不満が残った。

1990年(平成2年)経団連会長に就任した。就任早々、証券金融スキャンダルを受けて経団連企業行動憲章を制定し、企業モラルの確立を図った。また、バブル経済崩壊後の景気低迷を受けて、対日直接投資拡大、輸入促進ならびに輸入関連規制緩和のための緊急提言を行ったり、「アジア隣人会議」を開催してアジア経済の一体化、投資促進などを各国の経済界代表とともに話し合った。1992年(平成4年)の宮沢内閣のときに、邦銀の不良債権処理のための公的資金投入に経団連会長として「そんなことは考えることもできません」と反対している。1994年(平成6年)5月27日に会長職を退任し、名誉会長に。2002年(平成14年)9月には東京電力原発トラブル隠し事件の影響もあっていったん退いたが、2006年(平成18年)4月に復帰した。

2007年(平成19年)5月22日午前10時56分、心不全のため東京都内の病院で死去した。92歳没。叙・従二位

著作[編集]

共著[編集]

脚注[編集]

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出典[編集]

  1. ^ 芦田淳さんら4028人  秋の叙勲”. 共同通信 (2006年11月2日). 2013年12月27日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2013年2月16日閲覧。


先代:
加藤乙三郎
電気事業連合会会長
第6代:1977年 - 1984年
次代:
小林庄一郎