平井三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
平井正明から転送)
平井 三郎
Saburo Hirai 1955 Scan10020.jpg
1955年撮影
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 徳島県徳島市
生年月日 1923年9月4日
没年月日 (1969-07-23) 1969年7月23日(45歳没)
身長
体重
167 cm
60 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手
プロ入り 1948年
初出場 1948年
最終出場 1957年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

平井 三郎(ひらい さぶろう、旧姓:生田、1923年9月4日 - 1969年7月23日)は、徳島県徳島市出身の元プロ野球選手内野手)・コーチ

経歴[編集]

徳島商業では1939年から1940年にかけて、甲子園に春夏通じて3度出場。先輩に林義一、同級生に蔦文也がいる。当時の徳商は後に「徳島県高校野球育ての親」と言われる稲原幸雄監督が率いて、猛練習で有名で、練習見学で恐れをなした蔦は野球部を避けてテニス部に入るほどであったという[1]。卒業後は明治大学を経て、恩師の稲原が監督を務める地元のノンプロチーム「全徳島」でプレー。1946年1947年と2年連続で都市対抗に出場し、当時はプロ化の動きもあったほど人気のあったチームで、メンバーにはエースで4番の林、蔦らがいた。

1948年阪急ブレーブスへ入団。阪急ではすぐに遊撃手のレギュラーとなり、打率.279(打撃成績14位)はチームトップであった。1950年両リーグが分立すると、宇高勲の引き抜きにより宮崎剛日比野武永利勇吉と共に新設球団の西日本パイレーツへ移籍[2]。西日本でも1番打者・遊撃手として打率.309(リーグ11位)を挙げる[3]。この年は1シーズンで2度20試合以上連続安打を記録している。NPBの一軍公式戦でこの記録を達成したのは平井の他に1994年のイチロー、2014年の菊池涼介のみである。

同年オフに西日本は西鉄クリッパースと合併することとなり、西日本の主力選手であった日比野・南村不可止と共に西鉄と読売ジャイアンツとの選手争奪戦に巻き込まれる[4]。2リーグ分裂時に戦前からの正遊撃手であった白石敏男広島カープに譲渡し、後釜として三塁手山川喜作をコンバートしたものの穴は埋められず、遊撃手が弱点となっていた巨人はどうしても平井の獲得が必要な状況であった[3]。西鉄の西亦次郎球団代表は宇高と共に3選手を東京の宿泊施設に缶詰にしたのち、一緒に福岡へ連れ戻そうとするが、混雑する東京駅で平井は一行とはぐれ巨人側に連れ去られてしまったという[4]。あるいは、12月下旬に大阪球場で行われる東西対抗試合に平井が出場することを知った巨人監督の水原茂が、百円札で50万円分を抱えて大阪へ向かい、水原自ら平井の幼子のおむつ替えまでやるとの苦心の末、平井と夫人の承諾を得て契約を果たす。その後、平井が九州へ戻ろうとする際、西鉄の監視の目を潜って神戸の三ノ宮駅で東京行の列車に潜り込み、水原と名古屋駅で合流。東京では水原がしばらく平井を匿ったともされる[5]。こうした人さらいのようなゴタゴタを経て、平井・南村は巨人へ、日比野は西鉄へ移籍することになった。

巨人では1951年から1953年まで正遊撃手を務め、千葉茂との二遊間コンビを結成して守備の要となり、3年連続日本一に大きく貢献する[3]。平井自身も3年連続でベストナインのタイトルを獲得すると共に、オールスターゲームにも出場した。また、平井正明から平井三郎に改名した1953年には、1番打者に座って打率.291でリーグ10位に入り、リーグトップの97得点を記録している。なお、1953年3月アメリカサンタマリアで行ったニューヨーク・ジャイアンツとのオープン戦ではサヨナラ本塁打を打ち、日本プロ野球の単独チームによるメジャーリーグに対する初白星をもたらせている[3]。ジャイアンツはオフに日米野球で来日し、巨人は10月31日にも2-1で勝利。この時も平井は2回に適時打、8回には好投していたホイト・ウィルヘルムをとらえて本塁打を放った[6]。この試合では先発の大友工が日本の投手として2人目となるMLB相手に完投勝利を果たしている[6]

1954年にルーキーの広岡達朗にレギュラーを奪われて出場機会が減り[7]1956年以降は遊撃手のポジションを広岡に譲って二塁手に回るが、1957年心臓弁膜症を患って現役を引退。

引退後は1959年に新任の千葉茂監督に誘われ、近鉄バファロー一軍内野コーチに就任。二軍チーフコーチとなった1961年限りで千葉と共に近鉄を退団し、1962年には阪神タイガーススカウトとして移籍。辻恭彦などを入団させ、1963年から1964年には内野守備・走塁コーチを務め、1965年には再びスカウトに戻る。阪神退団後は名古屋市で現役時代の背番号に因んで喫茶店「エイト」を経営。1969年7月23日、風邪をこじらせた事による合併症により死去[8]。45歳没。

選手としての特徴[編集]

当時遊撃手は守備が重要で、打撃は打率.250打てれば及第とされていたが、平井は並みの体格ながら鋭いスイングで通算打率.277を記録し、打てる遊撃手の第一号ともされた[9]

巨人時代に二遊間を組んだ千葉茂は、守備範囲が特別広いとか、肩が並外れて強いわけではないが、自分とのコンビネーション・呼吸は巨人の歴代で一番だったと評している[10]。平井の二塁手への送球が非常に安定していたため、千葉は一塁手へ見ずに投げるプレーができたという[11]。また、別所毅彦と組んでの二塁走者の牽制プレーは絶妙で、ノーサインで牽制してしばしば二塁走者を刺した。特に、1952年にはシーズンで8回も牽制死を奪っている[12]

1976年当時、水原茂は巨人軍の歴代ベストナインの遊撃手に平井を推している。

逸話[編集]

  • 当時のプロ野球の遠征では、よく寝台車のない夜行列車を利用していたことから、車両の通路で寝ることになり衣服が汚れ苦労していた。あるとき平井はござを準備して列車に乗り、夜になるとござを広げてその上で寝始めた。それを見た巨人の選手は、次の遠征からみなバットケースにござを巻いて遠征に行くようになったという[13]。平井はござの上にユニフォームを広げて蒲団代わりに使うこともやっていた[14]
  • 日米野球で本塁打を放った日の晩は銀座へは呑みに行かず、新宿西口の「ほしの」[15]とんかつを食べていた[16]
  • 当時、遠征に行くと選手たちはよく麻雀を楽しんでいたが、平井は麻雀が全くできないのに、みなが麻雀をする様子を最後までずっと見ていた。また、食事の際は、チームメイトが揃って食事をしているのを尻目に、自分のお膳を持って台所へ行ってしまい、旅館の人と話をしながら食べていたという[12]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1948 阪急 123 487 458 51 128 24 9 2 176 43 26 7 0 -- 26 -- 1 16 -- .279 .320 .384 .704
1949 120 528 476 69 132 18 11 6 190 43 18 19 3 -- 46 -- 3 26 -- .277 .345 .399 .744
1950 西日本 103 476 437 76 135 15 3 13 195 56 28 9 2 -- 37 -- 0 27 8 .309 .363 .446 .809
1951 巨人 112 511 471 80 132 20 7 7 187 63 27 10 8 -- 31 -- 1 28 10 .280 .326 .397 .723
1952 120 489 427 63 118 19 6 4 161 52 21 7 15 -- 44 -- 3 26 4 .276 .348 .377 .725
1953 120 533 471 97 137 23 4 11 201 65 21 12 5 -- 55 -- 2 27 9 .291 .367 .427 .794
1954 79 226 206 21 52 9 4 0 69 21 8 1 3 1 15 -- 1 20 4 .252 .306 .335 .641
1955 111 410 353 47 99 17 0 5 131 32 14 10 24 3 27 0 2 35 3 .280 .335 .371 .706
1956 93 278 232 30 51 8 2 3 72 29 5 5 18 1 26 0 1 20 6 .220 .301 .310 .612
1957 28 41 35 5 4 0 1 0 6 4 0 0 3 0 3 0 0 7 1 .114 .184 .171 .356
通算:10年 1009 3979 3566 539 988 153 47 51 1388 408 168 80 81 5 310 0 14 232 45 .277 .337 .389 .727
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰[編集]

記録[編集]

節目の記録
  • 1000試合出場:1957年8月13日 ※史上41人目
その他の記録

背番号[編集]

  • 8 (1948年 - 1957年)
  • 11 (1959年)
  • 1 (1960年 - 1961年)
  • 67 (1963年 - 1964年)

登録名[編集]

  • 平井 正明 (ひらい まさあき、1948年 - 1952年)
  • 平井 三郎 (ひらい さぶろう、1953年 - 1964年)

脚注[編集]

  1. ^ 【有名高校人脈】蔦文也も恐れをなした徳島商の猛練習 -スポーツ- ZAKZAK
  2. ^ 『日本プロ野球トレード大鑑』74頁
  3. ^ a b c d 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』202頁
  4. ^ a b 『日本プロ野球トレード大鑑』76頁
  5. ^ 『報知グラフ 別冊 巨人軍栄光の40年』177頁
  6. ^ a b 大友工 死去|野球史 : 野球の記録で話したい
  7. ^ 【ありがとう八十年(51)】広岡達朗、川上さんに反逆「あんな下手なファーストじゃ…」 (1-2ページ) - 野球 - SANSPO.COM(サンスポ)-”. SANSPO.COM(サンスポ) (2014年7月16日). 2019年11月15日閲覧。
  8. ^ 『巨人軍の男たち』151頁
  9. ^ 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』
  10. ^ 『巨人軍の男たち』149頁
  11. ^ 『猛牛一代』332頁
  12. ^ a b 『剛球唸る!』124頁
  13. ^ 『巨人軍の男たち』150頁
  14. ^ 『猛牛一代』185頁
  15. ^ とんかつ ほしの - 西武新宿/とんかつ 食べログ - 東京
  16. ^ 森、国松…巨人昭和30年組のささやかなご褒美メシ

参考文献[編集]

  • 巨人軍5000勝の記憶読売新聞社ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。 p.22〜日本プロ野球初の完全試合を喫した西日本の1番打者として出場、p.36 3年連続ベストナイン、広岡のポジション定着
  • 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』恒文社、1976年
  • 『日本プロ野球トレード大鑑』ベースボールマガジン社、2001年
  • 坂本邦夫『プロ野球データ事典』PHP研究所、2001年
  • 『報知グラフ 別冊 巨人軍栄光の40年』報知新聞社、1974年
  • 千葉茂『巨人軍の男たち』東京スポーツ新聞社、1984年
  • 千葉茂『猛牛一代』恒文社、1977年
  • 別所毅彦『剛球唸る! - 栄光と熱投の球譜 (野球殿堂シリーズ)』ベースボール・マガジン社、1989年

関連項目[編集]