平井弥之助
ひらい やのすけ 平井 弥之助 | |
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生誕 |
1902年5月16日 日本 宮城県柴田町 |
死没 | 1986年2月21日 (83歳没) |
出身校 | 東京帝国大学工学部 |
職業 | 元東北電力副社長 |
平井 弥之助(ひらい やのすけ、1902年(明治35年)5月16日 - 1986年(昭和61年)2月21日)は日本の電力土木技術者、電力事業経営者。昭和時代の電力開発に卓越した見識と強い使命感をもって貢献した。また女川原子力発電所等の建設にあたっては貞観地震、慶長三陸地震による大津波を考慮した適切な技術的助言を与えた[1][2]。平井彌之助とも書く。
生涯
[編集]1902年(明治35年) | 宮城県柴田町に生まれる |
仙台一中、 旧制第二高等学校卒業 | |
1926年(大正15年) | 東京帝国大学工学部土木工学科卒業 |
1926年(大正15年) | 東邦電力(株)入社、(飛騨川)川辺発電所建設所長 |
松永安左エ門の薫陶を受ける | |
1941年(昭和16年) | 日本発送電(株)引継入社 (奥日光)黒部工事事務所長・水力建設所長 |
1945年(昭和20年) | 同社本店土木課長、土木部長、理事を歴任 |
戦後の電力復興の指揮をとる | |
1951年(昭和26年) | 東北電力(株)常務取締役建設局長兼土木部長 |
白洲次郎会長の下で只見川水力開発及び大型火力の導入に努め東北地区電源開発に挺身した | |
電源開発(株)の委嘱により国内最大水力の田子倉大プロジェクトの建設所長として建設にあたる | |
1960年(昭和35年) | 同社取締役副社長 |
1963年(昭和38年) | 財団法人電力中央研究所理事・技術研究所長 |
1975年(昭和50年) | 同退任・顧問就任 |
1986年(昭和61年) | 逝去(享年83) |
栄典
[編集]地震・津波に対する危機管理
[編集]平井は次の例に見られるように、技術者としての合理性と電気事業者としての責任感に基づいて地震・津波対策の重要性を説いた。宮城県出身の平井は地震・津波の恐ろしさを実感していたと云われ、「貞観大津波(869年)は岩沼の千貫神社まで来た」と語っていたという[1]。
- 新潟火力発電所の建設(1957年(昭和32年))に際し、地震による地盤の液状化を予測して深さ12メートルの超大型のケーソン基礎(鉄筋コンクリート製の大型の箱舟)を作らせて火力機器をその上に設置した。1964年(昭和39年)の新潟地震のおりには地盤の液状化が10メートルに達し、その有用性が証明された[1]。
- 東北電力の女川原子力発電所の建設(1968年(昭和43年))に際して「海岸施設研究委員会」に参画し、貞観地震級の大津波に備えるために敷地を14.8メートルの高台に設けることを強く主張した。さらに引き波時に海底が露出する事態に備えて取水路を工夫させた[1][3]。
2011年3月11日の東日本大震災において、13.78 m (12.78 m の波高と1 m の地盤沈下による)[4]の津波が女川原子力発電所を襲った。しかし、それは海抜14.8メートルの敷地に設置された3基の原子炉に達することなく、3基とも11時間以内に正常に冷温停止した。放射線モニタに異常値は検出されず、女川原発附設の建物はその後3ヶ月間にわたって津波で家屋を喪失した364人の人々の避難所となった。
1年後の2012年夏、国際原子力機関(IAEA)は女川原発に調査団を派遣し、92ページの調査報告書を日本政府に提出した。その結論は、「女川原発の諸施設は「驚くほど損傷を受けていない」(the facilities of the Onagawa NPS remain “remarkably undamaged”)」(報告書15ページ)というものであった[5][6]。
人物
[編集]平井に接した人々はいずれも、その不抜の信念と、信頼度の高い技術をあくことなく希求する慎重な態度を証言している[7]。 また通産省からもちかけられた共同事業を断った時に見せた経営者としての一徹さは、断られた人に尊敬の念を抱かせたほどであった[8]。
脚注
[編集]- ^ a b c d 大島達治「技術放談:結果責任を負う事業経営者のあり方」 2011年7月25日
- ^ “町田徹 ニュースの真相 明暗! 最悪事故の「福島」と避難所「女川」 復興に不可欠な「東通」のルーツを現地取材”. 現代ビジネス. (2012年4月3日) 2014年3月4日閲覧。
- ^ 女川原子力発電所における津波評価・対策の経緯について」 8. 津波対策① 敷地高さと構造物の配置(1/2) p. 30 東北電力株式会社 2011年9月13日
- ^ “東北電力「平成23年 (2011年) 東北地方太平洋沖地震により発生した津波の調査結果について」p. 10” (PDF). 東北電力 (2011年10月7日). 2014年10月30日閲覧。
- ^ “IAEA Mission to Onagawa Nuclear Power Station to examine the performance of systems, structures and components following the Great East Japanese Earthquake and Tsunami. Onagawa and Tokyo, Japan. 30 July - 11 August 2012.” (PDF). IAEA (2012年8月11日). 2014年10月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年10月30日閲覧。
- ^ “女川原子力発電所における東日本大震災およびその津波の後の系統,構造物および設備の性能を調査するためのIAEAミッション[東北電力和訳版]” (PDF). 東北電力 (2013年4月9日). 2014年10月30日閲覧。
- ^ “稲松敏夫「電力土木の歴史 第2編 電力土木人物史(その6)」” (PDF). 土木史研究 第18号 (1998年5月). 2014年3月4日閲覧。
- ^ 「鈴木篁 「原子力 の安全神話 エピソード2」
外部リンク
[編集]- 鈴木篁「WSJの記事-アジア地区ニュース:2011年7月12日」 - archive.today(2013年4月27日アーカイブ分)
- 共同通信「福島と明暗分けた女川原発」 2011年3月27日
- 東北電力「女川原子力発電所における津波評価・対策の経緯について」 2011年9月13日
- 経済産業省News Release 「平成23年東北地方太平洋沖地震における女川原子力発電所及び東海第二発電所の地震観測記録及び津波波高記録について」2011年4月4日
- 尾形努「女川原発を救った企業文化」2012年12月7日
- "Kiyoshi Sato, “A Study on Social Responsibility of Engineers and Managers”, Journal of Disaster ResearchVol.8 No. sp, 2013, pp. 730-736."
- "Richard Read, “How tenacity, a wall saved a Japanese nuclear plant from meltdown after tsunami”, The Oregonian, Nov. 6, 2013."
- "Takao Yamada, “Onagawa nuke plant saved from tsunami by one man's strength, determination” (Mainichi Japan) March 19, 2012. Picked up in SCIENCE-FOR-THE-PEOPLE Archives."
- "Gregory Clark, “The case for nuclear power”, Global Energy Policy Research, December 17,2012.".
- "Airi (Iris) Ryu1 & Najmedin Meshkati, “Why You Haven’t Heard About Onagawa Nuclear Power Station after the Earthquake and Tsunami of March 11, 2011”, Fall 2013, Daniel J. Epstein Department of Industrial & Systems Engineering, USC."
- 日本エネルギー会議-平井弥之助のような人物 2015年2月16日