幡文通

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幡文通
時代 飛鳥時代
生誕 不明
死没 不明
官位 従五位下
主君 文武天皇
氏族 幡文
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幡文 通(はたのあや の とおる)は、飛鳥時代貴族位階従五位下

出自[編集]

幡文氏は、に文様を描く職掌に勤めた氏族で、『新撰姓氏録』「左京諸蕃」によると、大崗忌寸と同祖とされる。大崗忌寸の元の旧氏姓は倭画師で、幡文氏も同じく画工を職能とする氏族であったとみられる。『姓氏録』には、続けて文帝の後裔の安貴公の後とする。元々は無姓。天平17年(745年)9月23日の優婆塞貢進文に右京八条三坊戸主、少初位上の幡文広足の名があり、その戸口の幡文広隅が優婆塞として貢進されていることが見える。

経歴[編集]

『続日本紀』巻第三の慶雲元年(704年)8月の記事に、「遣新羅使従五位上波多朝臣広足ら、新羅より至る」とあり[1]、同年10月、遣唐使の粟田朝臣真人らが、帰国後初めて天皇に拝朝したのと同日に、

正六位上幡文通(はたのあや の とおる)を遣新羅大使(けんしらきたいし)とす。

とある[2]。ほどなくして「」を賜姓される[3]

翌年5月、新羅より帰国[4]。後任の遣新羅使、美努連浄麻呂が任命されたのは、その翌年の8月であった[5]。慶雲4年(707年)2月、功績により従五位下を授けられた[6]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『続日本紀』文武天皇 慶雲元年8月3日条
  2. ^ 『続日本紀』文武天皇 慶雲元年10月9日条
  3. ^ 『続日本紀』文武天皇 慶雲元年10月16日条
  4. ^ 『続日本紀』文武天皇 慶雲2年5月25日条
  5. ^ 『続日本紀』文武天皇 慶雲3年8月21日条
  6. ^ 『続日本紀』文武天皇 慶雲4年2月25日条

関連項目[編集]