巨大科学

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巨大科学(きょだいかがく、: Big Science)とは、多額の資金を投じたり、多数の研究者を動員して行われる科学上の研究プロジェクトのこと。ビッグサイエンスともいう。

概説[編集]

自然科学というのは自然哲学の中から生まれたものであるが、それはもともとは(主として、“自然をおつくりになられた神様の意図”を知ろうとするといった自然哲学的な動機などによって)僧侶や貴族の身分の人(生活の安定した余裕のある人)が、個人的な知的関心を満たすためあるいは趣味として、つつましやかに行っていたものであったが、19世紀ごろに、哲学の中から従来の知識とは少し毛色の異なった知識のかたちが生まれ、そうした知識の担い手(scientist)らが世間に対して行ったデモンストレーションや政治的なかけひきによって、少しづつ人々にその価値を認められ、当時の大学制度に一部組み込まれたり、一部は企業から何がしかの資金を得て研究を行うようになったのであった。そうした科学の性格を大きく変えることになったのは、20世紀に起きた2度の世界大戦であった[1]。国家と国家が戦う中で、科学技術を用いた兵器などがその勝敗に大きな影響を及ぼした場面がいくつもあったことで、科学技術経済的・政治的・軍事的な命運を左右するものになったと人々から考えられるようになり、それによって科学は国家体制に組み込まれることになったのである[1]。こうして政府(あるいは政府と大きく癒着した巨大企業など)は、スポンサーとして科学者らに資金を提供すると同時にその研究内容の選択に関して意見をするようになり[1]、特に科学の先端的な部分は巨大化され軍事的なものとなった[1]。かくして、研究活動の動機は、かつて科学が生まれたころのそれとはかなり異なったものになってしまい、軍事的・政治的な特定の目標を達成するためのプロジェクトとして構想されるようになり[1]、(何がなんでも戦争に勝ち、他国を圧倒しようとする政府の意図によって、規模的にも)国家規模の莫大な資金と巨大な組織が投入されるようになった[1]

こうした流れに決定的な影響を及ぼしたものとして、第二次世界大戦中にアメリカ合衆国が行った原子爆弾製造プロジェクト、いわゆる「マンハッタン計画」が挙げられる[1]。これによって米国が世界で覇権を得たのを目の当たりにした各国は、このマンハッタン計画を、科学技術政策の“お手本”(モデル)としてもちいるようになった[1]。また、1960年代に米国ソ連が、政治的な意図のもとに行った宇宙開発競争も人々に大きな心理的な影響を及ぼした[1]。こうして、巨額の費用と巨大な組織が投入される流れができてしまったのである。

テバトロンの空中写真

一旦できたこうした流れは、マンハッタン計画、核融合計画、宇宙開発などといった応用科学的な分野にとどまらず、基礎科学の分野でまで起きることになった[1]。高エネルギー物理学の領域で、巨大な粒子加速器の建設に、数千億円から1兆円を超えるような資金が投入され、維持・運転にも莫大な資金が使われるようになった[1](この巨大な資金というのは、もとを辿ると人々から集められた税金である)。

こうした巨大科学というのは、往々にして、科学者らによる宣伝(「(かつての○○計画のように)技術的な波及効果があるはずだ」「国家の威信に貢献する」などといった宣伝)や、そうした宣伝文句を真に受けた人々の心に生まれた期待によって推し進められてきた[1]

だが実際には巨大科学は問題を孕んだものであった。たとえば科学者の視点から見ても、科学のごく一部にすぎない特定の分野にばかりに莫大な資金が投入されるということは、それによって、それ以外の科学の様々な分野にお金が充分に供給されなくなる、という結果を招く、といった批判がされるようになった[1]。(例えば、巨大加速器たったひとつに1兆円が費やされてしまうということは、結果としてその陰で、例えば10億円規模でできる様々な科学研究が1000個も、その研究資金を得る機会を失う、ということになる)

莫大な予算がずさんな計画によってさらに膨張しつづけ、米国議会によって計画中止の決定がされることになった SSC(超伝導超大型加速器)の施設の その後のありさま(2008年)。

さらに国民が出した税金によって成り立っている国家財政というのは決して“魔法の槌”のようなものではなく、何ごとにも限界や適切な規模というものはあるように、科学に割り当てる予算にも限界や適切な規模というものはある。また国家の経済が無限に膨張しつづけるということはなく、ある一定の規模に留まったり、縮小してゆくこともある。巨大科学が国家財政や国民生活に少なからず悪影響を及ぼしていることが人々に認識されるようになると、政府の側からも予算の見直しや計画の見直しが検討されるようになった。例えばアメリカ合衆国ではSSC超伝導超大型加速器)建設プロジェクトは中止との決定がなされた[1](1993年)。

池田清彦によると、巨大科学というのは日本の公共工事に似ている[2]。(かつてはそれなりの経済効果があったが)最近では意味がないものが多く、借金だけが累積するという最悪の構造になっている。(土木事業の例だと)もうかるのはゼネコンとそれに癒着した政治家だけであり、国と地方自治体の借金は膨大になっており、国民が税金を徴収される形でそれを払わなければならない状態であり、「大多数の国民にとってメリットよりデメリットの方がはるかに大きい」。一度、制度として作られたものを変化させることは、いかなる制度であっても容易ではなく、「公共事業が大変なお荷物になったのと同じように、巨大科学もまた、やっかいなお荷物にならない保証はない」と池田清彦は述べた[2]

参考文献[編集]

  • 哲学思想事典、岩波書店、1998年、成定薫 執筆 p.357

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 哲学思想事典 p.357
  2. ^ a b 池田清彦 『科学はどこまでいくのか』 筑摩書房、2006年、ISBN 978-4480422811 「巨大科学の問題点」

関連項目[編集]

関連文献[編集]

単行本
  • 吉岡斉『科学文明の暴走過程』海鳴社、1991
  • 伏見康治「現代のだだっこ巨大科学」研究技術計画 6(4), 200-201, 1992-10-15 [1]
  • 丹野清秋【今月の論説】人間に巨大科学技術を管理運営する能力はあるか?--動燃東海・再処理工場爆発事故放射能漏洩から」月刊フォ-ラム 9(6), 6-9, 1997-06
  • 竹田保正「巨大科学を優先し、国立大学の基礎研究を冷遇した科学行政」科学 70(9), 700-705, 2000-09
  • 日野川静枝「サイクロトロン開発の各国比較 : 巨大科学の起源を探る(科学史入門)」科学史研究. 第II期 45(237), 34-37, 2006-03-28
  • 大沼淳一「原発には予防原則を--福島原発事故が証明した巨大科学技術の限界性 (特集 原発のない社会へ--現地から、世界から) 」ピープルズ・プラン (55), 110-116, 2011-09
  • 橋山禮治郎「巨大科学技術開発はなぜ失敗するのか : 政策評価と国会の責任」世界 (828), 60-69, 2012-03