川手泰二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

川手 泰二(かわて たいじ、1911年9月1日[1][2] - 1986年8月22日)は、日本新聞記者、会社経営者。名古屋放送株式会社代表取締役社長会長全国朝日放送取締役。

来歴・人物[編集]

山梨県北杜市(旧須玉町若神子)出身[2][3]。父は、昭和初期に立憲政友会所属で山梨県選出の衆議院議員だった川手甫雄。兄は、山梨トヨタ自動車社長やテレビ山梨取締役を務めた川手淳一。弟は、日軽アルミニウム工業専務を務めた川手雄三。[2]

山梨県立甲府中学校日本大学法学部卒業[1][2]。大学卒業後の1936年朝日新聞社に入社。社会部の事件記者として鳴らし、警視庁キャップを務めた[4]1961年に東京本社特信部長に就任。

1962年4月、名古屋放送の開局に際して放送界に転じ[5]取締役東京支社長に就任。その後、1965年常務取締役、1968年専務取締役、1971年に取締役副社長となり、1976年7月に代表取締役社長に就任。副社長時代には、中京テレビ放送との間で懸案となっていたネットワークの再編に尽力した。

また、1974年から1976年までは、社長神谷正太郎に代わって日本民間放送連盟の副会長を務めた[6]。民放連では14年間にわたって報道委員長の職にあり、特に1984年ロサンゼルスオリンピックの際には、民放連の代表としてオリンピック委員会との折衝に当たった。

1975年藍綬褒章1981年勲二等瑞宝章を受章。1985年に名古屋放送の代表取締役会長に就任した。

名古屋放送在職中は、1963年から「グリーンキャンペーン」と称する息の長い都市緑化事業を推進した[7]。また、朝日新聞社常務だった矢島八洲夫が所有していた浮世絵のコレクションをこどもの国協会の基金づくりのために手放すことになり、川手が主導してこのコレクションを名古屋放送が購入した。8500枚に及ぶ購入したコレクションの一部は、バーチャルミュージアムで公開されている。[8]

川手は豪放な性格で、新聞記者時代には気に入らないことがあると上司に対しても「バカヤロー」と怒鳴りつけることがあった。しかし、部下は「バカヤロー」の裏側に優しい思いやりがあるのを感じていたという。[4]

1986年8月、急性心筋梗塞のため静養中の長野県で急逝した。74歳没。

著書[編集]

  • 『新警察読本』(ニュース社 1948年) 加藤陽三との共著[9]

脚注[編集]

  1. ^ a b 読売年鑑1986』別冊、読売新聞東京本社、1986年、p.131
  2. ^ a b c d 『山梨興信録』 山梨日日新聞社、1979年、p.265
  3. ^ 朝日新聞縮刷版』1983年2月号 p.395
  4. ^ a b 週刊朝日』1986年9月12日号、p.156~p.157
  5. ^ 名古屋放送はトヨタ自動車が大株主になっている会社で、初代社長にはトヨタ自動車販売の社長だった神谷正太郎が就任した。川手泰二の兄の川手淳一が山梨トヨタ自動車の社長であったため、その縁で招聘されたと言われる。泰二も山梨トヨタ自動車の取締役を務めていた(『山梨興信録』)。なお、『名古屋テレビ放送30年』(p.67)では「山梨トヨペットの社長の弟」となっているが、それは誤り。
  6. ^ 歴代会長・副会長 一般社団法人 日本民間放送連盟
  7. ^ メ~テレの環境への取り組み 名古屋テレビ放送
  8. ^ 名古屋テレビ放送の浮世絵コレクションについて 名古屋テレビ放送
  9. ^ 国立国会図書館サーチR100000002-I000000847950-00

参考文献[編集]

  • 朝日新聞縮刷版 1986年9月号 p.853
  • 『希望の泉 名古屋テレビ10周年記念』(名古屋放送株式会社 1972年)
  • 『名古屋テレビ放送30年』(名古屋テレビ放送株式会社 1992年)
先代
神谷正太郎
名古屋テレビ放送社長
1976年 - 1985年
次代
守部政喜