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川口敬次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
川口 敬次郎
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 熊本県
生年月日 (1919-06-15) 1919年6月15日
没年月日 (1991-11-29) 1991年11月29日(72歳没)
身長
体重
173 cm
64 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1950年
初出場 1950年5月11日[1]
最終出場 1951年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

川口 敬次郎(かわぐち けいじろう、1919年6月15日 - 1991年11月29日[2])は、熊本県出身のプロ野球選手投手)。旧姓:岡本[3]

来歴・人物

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熊本工業(現・熊本県立熊本工業高等学校)在学中には、甲子園に1回(夏1回〈1937年〉)出場[4]。この大会では川上哲治(同級生でもあった。のち巨人)の控え投手という立場であったが、チームの準優勝に貢献した。準優勝時のメンバーには川上の他、吉原正喜鈴木田登満留(2人とも巨人)がいる。

熊本工業卒業後は、中島飛行機製作所西日本鉄道硬式野球部と社会人野球のチームに所属。1948年第19回都市対抗野球大会では、控え投手としてチームの優勝に貢献。この時のチームメイトには、武末悉昌投手・伴勇資捕手・上野義秋一塁手・宮崎要監督兼二塁手・深見安博三塁手・千頭久米夫遊撃手・塚本悦郎中堅手・大崎憲司右翼手がおり、後に西鉄の草創期を形成するメンバーとなった。

1950年にこの年新設された西鉄クリッパース投手として入団。しかし制球難に苦しみ、プロ通算で未勝利に終わった。1951年阪急ブレーブスに移籍し、同年限りで引退した。阪急所属時代の1951年9月23日、西鉄戦(後楽園スタヂアム)ではかつての同僚だった千頭から、プロ野球通算5,000号となるメモリアルアーチを打たれている(プロ野球記念本塁打一覧参照)。

1991年11月29日に死去[2]。72歳没。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1950 西鉄 11 7 0 0 0 0 3 -- -- .000 161 32.1 38 3 22 -- 2 10 0 2 30 27 7.36 1.86
1951 阪急 13 2 0 0 0 0 0 -- -- ---- 176 36.1 45 4 13 -- 3 9 0 0 26 15 3.65 1.60
通算:2年 24 9 0 0 0 0 3 -- -- .000 337 68.2 83 7 35 -- 5 19 0 2 56 42 5.50 1.72
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別打撃成績

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O
P
S
1950 西鉄 11 11 8 1 1 1 0 0 2 1 0 0 0 -- 3 -- 0 1 0 .125 .364 .250 .614
1951 阪急 14 10 10 0 2 0 0 0 2 0 0 0 0 -- 0 -- 0 0 1 .200 .200 .200 .400
通算:2年 25 21 18 1 3 1 0 0 4 1 0 0 0 -- 3 -- 0 1 1 .167 .286 .222 .508

背番号

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  • 11 (1950年)
  • 15 (1951年)

脚注

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外部リンク

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関連項目

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