川原ひろし

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かわはら ひろし
川原 浩史
生誕

1964年3月13日(51歳)

となっているが、実際は1961年との噂もある。
日本の旗 日本福岡県福岡市博多区
出身校 九州産業大学付属九州高等学校
職業 実業家(ラーメン屋)
歌手 タレント
接客コンサルタント
セミナー講師
ショー催眠術師

川原 浩史(かわはら ひろし、1964年3月13日 - )は、全国に豚骨ラーメンを広め、日本にラーメンブームを巻き起こした日本実業家ラーメン屋経営者である。株式会社なんでんかんでんフーズ社長[1]スタンダードポップス歌手、オペラ歌手シャンソン歌手、タレント俳優催眠術師として、テレビ舞台出演でも知られ、業界一(飲食)のエンタテイナーとも言われている。昭和一世風靡した大御所漫才師【Wけんじ】の最後の弟子でもある。7年間太田プロダクションに所属していたこともある。 2009年、文化の日 東久邇宮文化褒賞[1] 受賞  西武文理大学特命特任講師

来歴 人物 生い立ち~開業まで [編集]

生い立ち [編集]

貿易商の父義充と母京子の長男として福岡市博多区に生まれる。 父方は代々実業家家系である。父義充は、釜山で生まれたが、終戦と同時に日本に引き揚げてきた。地元の修猷館高校から早稲田大学に入学し、卒業後は地元の銀行に入るが、のちに日中貿易会社を設立する。 川原曰く、父ほど温厚な人物はいない、人の悪口も一切聞いたことなく、誰からも愛される人柄から数多く世話人を任されている。 またゴルフの腕前はプロ級で、世界レフティー選手権シニアの部門では、巨人軍の元監督でもあり、球界のドンと呼ばれた故川上哲治とコンビを組み、世界十位という快挙を上げるほどの腕前である。 祖父義夫は、長者番付の常連で投資で一財産を築くなど、福岡では有名な投資家でもあった。 また博多華丸富田靖子が主人公を務める九州限定で後にフジテレビでも放送されたTNCテレビ西日本制作の人気テレビドラマめんたいぴりりのモデルになった日本で初めて辛子明太子開発命名した辛子明太子の生みの親でふくやの創業者の川原俊夫は川原の大叔父(祖父儀夫の弟)である。川原の祖父と思われていることが多いが、祖父ではなく祖父の弟である。 一方、母方の家系はクラシック音楽、美術などが溢れた芸術家庭であったという。 母京子は北京で生まれ、戦後、日本に引き揚げたあと、祖父清が建設会社の設立のため宮崎移住する。川原は幼い頃から母に連れられ、クラシックの演奏会美術展覧会など頻繁に行ったという。また食も教養だという母の教育方針から、あらゆる料理を食べに連れていかれたという。母自身も、ピアノや絵を描く他、一時期は料理教室もやっていた。音楽の好みも幅広く、クラシック以外に、演歌ロックタンゴシャンソンなど、音楽のジャンルにこだわらず聞いていたそうである。ちなみに川原は母が買った来たレコードイギリスハードロックバンドディープパープルファンになったという。母は、我が子には正統派の音楽教育を受けさせたいとの思いから4歳から多くのクラシック音楽家輩出した福岡音楽界の名門福岡音楽学院付属幼稚園に入園させる。当初、バイオリンを専攻したが、手が小さかったことと母と先生との確執があり、ピアノ声楽に転向した。 幼い頃は絶対音感もあったという。 小学校は市立当仁小学校に進んだが、低学年まで放課後は音楽学院にも通っていた。母親が教育熱心ということもあってか、音楽以外も書道ボーイスカウト英語家庭教師・・・と、連日習い事で一日が終わったそうだ。毎日の習い事が逆効果となり、勉強が嫌いになったという。それでも母親は私立の中学に入れたく受験させるも失敗。母は息子に呆れ、「そんなに勉強が嫌なら出てけ!!他人の家の飯を食って親の有難みを知れ!!」と、小学校卒業と共に、大阪寝屋川の親戚に預けられ、泣く泣く寝屋川第三中学校に入学する。大阪に行っても博多弁を貫いたことから人気者となった。しかし、大阪に預けられるなんて・・・冗談かと思ったという。12歳で親元を離れ淋しい思いをしたが、川原を慰めてくれたのは、当時全盛だったラジオだった。特にラジオから流れてくる歌謡曲は川原の淋しい心を癒してくれたという。そして、この時期に歌手になると決めたそうだ。当時、大好きだった歌手は西城秀樹野口五郎郷ひろみ布施明尾崎紀世彦、[本郷直樹]]である。本郷直樹は、川原の親戚である。翌年、淋しさのあまり、大阪の中学校から中学2年からは博多の中学に戻っている。高校に進学するとロックに夢中になり、将来はロックギタリストになりたいと腕を磨いたが、卒業寸前になり、やはりクラシック音楽の魅力には勝てないと、一浪したのち、突如オペラ歌手を目指す。

音楽を目指して上京~ [編集]

一時期は音大を目指すも実力不足で断念。地元には結婚まで考えていた彼女がいたが、それでも歌手にはなりたいと親戚の大手プロダクションバーニングプロダクション第一号所属タレントで和製プレスリーとして一世を風靡した歌手の本郷直樹を頼って上京する。ちなみににバーニングプロダクションバーニングという名前は本郷直樹のデビュー燃える恋人の燃えるが英語でBurnだったこともあり、所属タレント第一号でもある本郷のデビュー曲を記念して名付けられた。それ以外に、川原の母は大学に落ちたら寿司屋ラーメン屋にさせると常に言っていたので、一日も早く福岡を離れたかったそうだ。そんな母親であるが、日本一やさしく、厳しい親であり、川原の人生は母親の影響が強いと言っている。その後、22歳の時、日本棋院の関係者の依頼で作曲家として東芝レコードから演歌打碁一代でデビューしている。歌手としてでなかったが、音楽に関わることでデビュー出来たことに大喜びしたそうだ。当時のエピソードとして、中学3年の時の担任が「可愛い教え子のデューレコードだ。今度の同窓会の時、先生がみんなに売ってやるけん、いっぱい持ってきなさい」と言ってくれたが、同窓会当日、川原以外にもう一人漫画家としてデビューした子がいたという。その名はきうちかずひろ、そして彼の漫画こそが、ビーバップハイスクールだった。担任の先生は「クラスから二人も先生が誕生した。先生は嬉しいよ」と感激してくれたが、その後、二人の明暗ははっきり分かれた。川原のレコードは全く売れず廃盤に・・・仕舞いにはその歌を歌った歌手はやる気をなくしてしまい、新曲発表会というのにその日の主役ともいえる歌手が現れず、結局川原が歌ったという。一方、きうちかずひろビーバップハイスクールは飛ぶ鳥を落とす勢いで売れまくり、映画化にもなった。同じスタートを切った二人だが、天国と地獄と明暗を分けた。 「打ち碁一代」の音楽プロデューサーであり編曲の鈴木童夢は専門がタンゴシャンソンであったこともあり、川原と意気投合。の紹介で、丸山明宏三輪明宏金子ゆかりなど輩出した日本シャンソン界の殿堂で、川原にとって憧れの“銀巴里“のステージにも立つ。

 Wけんじに弟子入り [編集]

ひょんなことから漫才界の大御所「Wけんじと出逢い、前座歌手として雇われる。しかし、Wけんじは川原のこと売れない演歌歌手だと思って雇ったところが、「Wけんじのファンは年寄りが多いんだよ、シャンソンとかクラシックとか歌われても困るんだよね」と言われ解雇されることに・・・しかしながら、しゃべりが達者だった川原に「お前はしゃべりも上手いな~、歌もいいけど、しゃべりを勉強したら仕事いっぱいあげるよ」と言われ、正式にWけんじの弟子となる。そして、往年の大スター春日八郎をはじめ、和田弘とマヒナスターズ玉川カルテット松竹演芸場など昭和に活躍したスター、あらゆるジャンルの場で司会を務めるなどした。後に単独で芸人となり、一時期漫才コンビを結成したこともある。春風亭柳昇師匠に対し、「このおじさん」と言って、Wけんじと共に呼ばれ怒られたたという逸話がある。しかし、食べて行くには程遠く、ホストクラブで歌手をやらせてもらいながら、ホストもやっていた。その他 マクドナルドポスティング銀座のクラブのボーイ看板取り付け工事結婚式の司会ホステスの送りの運転手新聞販売店・・・etc 特に新聞販売店ではは芸を披露するなどして、新規開拓で一日最高7万円を稼いだこともあるという。

 東京のラーメンにショック[編集]

川原は上京当時からどうしても馴染めない食べ物が二つあった。一つはうどんである。博多で生まれ育った川原は「うどん」にはうるさい。博多といえばラーメンと思われがちだが、うどんは博多っ子ソウルフードの一つであり、ある意味、ラーメン以上にうどんが好きだと言っている。東京の真っ黒なうどんには相当がっかりきていているようで、未だに好んでは食べないという。東京うどんは、ダシも効いてなく、ただ醤油を薄めたような味、その点、博多のうどんは見た目は薄いがダシも味もしっかりとしている。最近になってやっと讃岐系のうどんも食べれるようになったが、それでもちょっと柔めだが、博多のうどんは日本一!!だと豪語している。そして、もう一つがラーメンだった。川原が一番驚いたのが博多では当たり前というよりか、それしかないし、それしか食べない博多スタイルの豚骨ラーメン東京には影も形もなかったことだ。博多っ子にとって豚骨スープは血液みたいなもので、博多もんは博多スタイルの豚骨ラーメン以外はラーメンとも思ってなく、実際に現在も豚骨以外のラーメンは滅多にない。また縮れた麺や太麺も博多では受けが悪いという。東京の醤油ラーメンやサッポロ系のラーメンが草食ラーメンだとしたら、豚骨ラーメンは肉食ラーメン。九州男児は肉が好きで、特にラーメンに関してはかなり保守的な県である。特にまだ若かった川原にとって、東京のラーメンはあまりにも貧相で、こんなのをラーメンと思っている東京の若者が可哀そうに思えたそうだ。これならインスタントラーメンのほうがマシだと言って、外でラーメンを食べることがなかった。 若い頃の川原にとって豚骨ラーメンは命。福岡市内のラーメン店はもちろん、インスタントラーメンに至るまで、幼い頃から親の目を盗んで食べ歩いていた。その結果、予備校時代に突然頭が重くなり、診断の結果「君の血圧は、50歳くらいの人の血圧ですよ。ラーメン食べすぎですね。しばらくラーメンは塩分が多いので控えてください。特にスープは飲まないように・・・」当時、ラーメンが命の川原にとっては、死刑宣告されたようだったという。そのくらいに博多のラーメンを愛していただけに東京でのショックは大きく、我慢が限界に達する度に、ラーメン、うどん、チャンポンを食べる為だけに帰省していたそうだ。その後、都内にも博多ラーメン豚骨ラーメンの看板を掲げる店が出来たものの、すべてが偽物のなんちゃって豚骨、[博多もんを騙すんじゃない!!」と激怒して店を出て行ったという。当時、川原は福岡県人会に入っており、青年部の会合で集まった福岡の若者は声を揃えて「本物の豚骨ラーメンが食べたか~!!」と言っていたそうだ。この時、「俺がやろうかな~」と思ったこともあったそうだが、幼少の頃から見ていたラーメン屋のイメージは臭い!!汚い!!カッコ悪い!!と三拍子揃った3Kだったので、真剣には考えなかったという。それより、ステージで脚光を浴びる歌手にまだ魅力を感じていたという。その後も新たな情報が入る度に博多の仲間と行くが、やっぱりインスタントラーメンの様なスープ。まだインスタントラーメンのほうがマシだと皆でブーブー言って帰ったそうだ。おまけに麺は縮れている。博多ラーメンで縮れた麺は見たことも聞いたこともない。豚骨を知らん東京人を騙すような店ばかりで段々と不満が募っていった。この時代に、食べ物にこんなにも地域差があるとは・・・驚きを隠せなかった。 川原が上京当時の東京で驚愕したのはそれだけでなかった。もつ鍋は全くなかったし、チャンポンを食べてもほとんどの店がチャンポン麺を使ってなく、輪ゴムの様な縮れたラーメン用のでチャンポンを出していたという。特にショックだったのは博多では当たり前の細いネギが滅多になく、うどんラーメンも太いネギ。特に博多ラーメンに太いネギが入っていた時はさすがに脳みそが噴火したという。太いネギは博多でも普通にあるが、すきやきに入れたり、鍋や焼いて食べる程度でけっして、博多のラーメンには入ってない。数年後、細いネギは博多万能ネギなどという名前で売り出されたが、博多で万能ネギなんて名は一度も聞いたことなく、東京に売り出すために考えられたネーミングだという。さらにやきとり屋で驚いたことに、今では一般的になったが1990年代後半まで、東京のやきとりはタレが主流で、「塩で焼いてくれ」と頼んだら不思議な顔をされたという。最近、キャベツを焼き鳥と同時にい出す店も多いが、あれも博多発祥。豚足も焼いて出してくれる店は滅多になく、今では、知られてきた高菜柚子胡椒も知名度は低く、あまり売ってなかったという。博多は日本でも有数のグルメの街であることは間違いないと常に川原は博多を自慢する。さすが、明太子を発明した大叔父を持つだけあって、実に郷土愛の強い男だ。

 ラーメン店開業を決意[編集]

昭和59年、シャンソンワンマンショーをやった際のことである。毎回、ショーが終わるとお客様一人一人に必ずご挨拶とお見送りをするが、最後の最後まで帰らない年配女性がいたという。何か話したいことがあるのだろうか・・・そして、川原に近づいて来てこんなことを言ったという。「あなたの声と歌は素晴らしいと思います。でも、シャンソン人生歌い上げる大人の歌です。あなたは人生経験が足りなさすぎる。シャンソンを歌うには若すぎると思います。せっかく素晴らしい歌詞感情が伝わらないんじゃね~。シャンソンは20代、30代で歌うより40、50歳を過ぎて歌った方がいいのよ。人生でもっと苦労しなさい。シャンソンを歌いたいなら、もっと歳を重ねてから歌うことを勧めるわ」って言われたんです。実は、その言葉が川原を生き方をとっても楽にさせたという。実は、川原の中では若い時を逃すと歌手としてのデビュー絶望的だと考えていた。当時売れていた歌手の大半が若くしてデビューし、ヒット曲を出していたことで、川原の中に少なからずとも焦りがあったという。しかし、川原はそもそも大人にアピール出来る歌唱力で勝負したいと考えていただけ励みになるだけでなく、大変勇気づけられたそうだ。川原は自分の人生を変えたと言っても過言でないこの女性に感謝して、是非直接お逢いして御礼を申したいが、手がかりもなく連絡先も分からず後悔しているという。僕が目指す大人の為の音楽は急ぐ必要がないんだ!!もっともっと歌唱力を磨いて、人生経験を積んでから再挑戦しようと決めたのだった。[俺の目指す音楽は急ぐ必要がないんだ!!もっと人生経験を積んで、再挑戦しよう」。そう決めたら、「何か他のことをやろう!!」川原はそもそも目立ちたがりの精神が誰よりも強かった。「今やって注目を浴びるこをやらねば・・・」そう考えた時、迷わず選んだのが豚骨ラーメンだった。それ以来、毎日ラーメンのことばかりを考えるようになる。それは夢の中でも同じで、毎晩のように行列が出来る店の中で自身がラーメンを作っている姿が出てきたという。しかし現実問題、こってり豚骨ラーメンが東京人の味覚に合うものか・・・? 川原の父は、「東京は東北文化が強い、もしやるなら東京人好みにアレンジせねば、商売は難しいぞ!!」と言ったそうである。しかし、決して若くない父の意見を参考にしても仕方ない、博多でもある程度の年齢に達するとラーメンよりうどんを好むし、歳と共にあっさりした味を好むのはどこでも同じ、そもそも自分は若い人が好むラーメンを提供したい、「博多にはもっと美味いラーメンもあるとぜ!!」ということを知ってもらいたいたかったという。「草食系の東京人に、肉食系の豚骨ラーメンを食わせてやりたい」と思っていたそうだ。

なんでんかんでんオープン [編集]

1987年7月、東京都世田谷区の幹線道路・環七通り沿いにとんこつラーメン店、『なんでんかんでん』を開業する。


なんでんかんでん危機 [編集]

なんでんかんでん閉店 [編集]

なんでんかんでん伝説[編集]

*伝説1.『東京人が、初めて食べた豚骨ラーメン!!』

昭和61年 東京 世田谷区は環状七号線(通称環七)に、彗星の如く現れたラーメン店“なんでんかんでん”。当時、醤油か味噌、塩しかなかった東京で“なんでんかんでん”のラーメンは衝撃的だった。多くの関東人が初めて食べた豚骨ラーメンが“なんでんかんでん”だった。替玉とビールだけを注文するなど、替玉の知名度はほとんどなく、説明を書いていた。創業時の新聞の取材で、[もし、この店が成功したならば、10年後、日本のラーメンは豚骨が主流になるだろう」と答えている。事実、現在多くのラーメン店は、豚骨主体のスープとなっている。

*伝説2. 『数百メートルもの大行列と“なんでんかんでん”渋滞!!』

当時のは繁盛ぶりは凄まじく、住宅地で夜間のみの営業にも関わらず、毎夜1000人を超える大行列。環七通りには、違法駐車が続出。 “なんでんかんでん”渋滞と呼ばれ、社会現象に・・・ なんでんかんでんの行列は、どこの有名ラーメン店にも破られてないと言われている。

*伝説3. 『110番、1日50回以上!!日本初の交番所付きラーメン店!!』

ラーメン食べたさに大事故も続出!! 違法駐車、騒音、悪臭まで、全盛期の110番の通報は、一日平均50回以上!!警察は、あまりの苦情の多さに、環七の車線を書き換えたり、なんでんかんでんの前だけ中央分離帯を設置、更には、八ヶ月間に渡って開店~閉店まで多くの警察とパトカーを常駐させた。また20人以上の近隣住民が、プラカードを持って三カ月間も店前で抗議、客とケンカになるなど大問題となった。この模様は数社のテレビ局で中継された。テレビ以外のマスコミは、日本一泥棒が入りにくいラーメン店と皮肉った。しかし、「一軒のラーメン店のために多額の税金を使うとはけしからん」と社会問題となり、八か月で完全撤退した。

*伝説4.『テレビ、マスコミ露出は、業界ナンバーワン!!』

これまでに出演したテレビ番組は、ラーメン番組以外に バラエティー、歌番組、ドラマ、コメンテイターなど1500回に迫る。雑誌、新聞等を含めると2500を超え、業界ナンバーワンである。中でも川原社長がレギュラー出演した【マネーの虎】2000~2004年(日本テレビ系列)は、テレビ史上に残る伝説の番組となり、今もYouTube等での再生回数は凄まじい。【マネーの虎】に影響を受けて、起業したという若者は多い。またプロ歌手への登竜門【歌スタ!!】(日本テレビ系列)では、レギュラー出演し、オープニングソングを担当。毎週、毎週、違った洋楽を熱唱するなど、歌手としての実力も発揮、マルチタレント社長として元祖的な存在となった。2006年に発売のCD【ラーメンロック】は、TVチャンピオン(テレビ東京系列)はじめ、多くの番組で挿入歌として使われていて、カラオケでも配信されている。


*伝説5. 『“なんでんかんでん”の成功がきっかけに、日本はラーメンブームへ』

“なんでんかんでん”の成功がきっかけに、ラーメンというビジネスが脚光を浴び始め、脱サラしてラーメン屋のオヤジを目指す人も・・・ 若干、25歳で成功した川原社長は、テレビ、雑誌、イベントにへと引っ張りダコ、それまで若者にとって、あまりイメージが良くなかったラーメン屋という職業もビジネスとし、カッコいい職業として若者の起業者が続出した。“なんでんかんでん”から始まった豚骨ブームは全国に広まり、多種多様化、博多の有名ラーメン店の進出のきっかけにもなった。ラーメン番組は、ゴールデンタイムを賑わすまでになり、日本は本格的なラーメン国家と変貌していき、今や海外でも日本のラーメンが一大ブームとなっている。 2009年 文化の日、ラーメンを日本の新しい文化に定着させたとして、東久邇之宮文化褒賞を受賞している。

*伝説6.『お待たせ劇場!!』

お待ちいただいているお客様を退屈させないようにと、行列の中央に特設ステージを設置、漫才、マジック、曲芸と多種多才なゲストが出演。ときには社長の芸を披露することも・・・間寛平さん、エスパー伊東さん、ポカスカジャンさん、アントキノ猪木さんほか有名芸能人も舞台上に・・・


*伝説7.『世界発!!食べる広告、【プリントのり】』

“なんでんかんでん”が世界に誇る?大発明!!それがプリントのりだ!!卵殻カルシウム、乳性カルシウム、でんぷんを主原料に食用塗料を海苔に印刷。もちろん、化学添加物は一切不使用(※玉子、牛乳等アレルギーに御注意下さい)で安心して召し上がれる健康食品。これまでに、宮内庁、郵政省、ディズニー、サンリオ、サントリー、トヨタ自動車・・・など大手企業の販促品や人気キャラクター、斬新な広告として使われている。 プリント海苔は、㈱大政、なんでんかんでんフーズ㈱の特許取得商品となっている。

*伝説8.『こな落としを命名!!』

“なんでんかんでん”はカタ麺ブームの火付け役としても知られている。その代表的なのが【こな落とし】だ!! 開店当時、学生のお客様が仲間同士で、麺の硬さを競い合っているうちに、「5秒!!3秒!!1秒!!」とエスカレート!!「川原社長が、そんなの麺のまわりの【粉】を落とすすくらいでいいとね!」ということで、【粉おとし】と名付けた。ゆで時間1秒~5秒はハリガネより硬く最強である。現在では、全国のラーメン屋で使われているほか、地元博多でも普通に使われている。

*伝説9.『伝説のスーパースター【マイケル・ジャクソンVSなんでんかんでん 幻のコラボラーメンとどんぶり】』

2003年、なんでんかんでんに一本の連絡が入った。連絡してきたのはソニーミュージック。マイケルジャクソンのニューアルバム【NUMBER ONES】の発売を前にマイケルがアッと驚くような発売キャンペーンをやりたいとのことだった。 「マイケルは珍しいものがすきなんです!!なんでんかんでんのプリント海苔でニューアルバムの宣伝が出来たらマイケルが大喜びすること間違いないと思うので是非とも協力してくれませんか?」とのことだった。 更には、「マイケルが来日したらこのラーメンを見せてあげたい。出来ればなんでんかんでんの店で記者会見も考えている」というのだ。こんな凄い話が滅多にないというばかりに、話はトントン拍子に進み、なんでんかんでんのロゴとマイケルジャクソンがデザインされたラーメンどんぶりが100個作られた。また岩海苔を高く積んで、紅しょうがで飾り付けしたマイケルジャクソンラーメンも考案。勿論のりには【MICHAEL JACKSON NUMBER ONES】。店内は天井も壁もマイケルのポスターで埋め尽くされ、音楽も営業中ずっとマイケルの曲だけを流した。来日も決まり、興奮の最中、残念な知らせが入ったのだ。マイケルが、児童虐待の容疑で緊急逮捕、来日出来なくなってしまったのだ。その日を楽しみに、続けてきたマイケルジャクソンのキャンペーンは幕を閉じた。次の機会もあるとにことだったが、2009年 6月25日、まだ51歳という若さで、まさかの帰らぬ人となった。マイケルジャクソンとなんでんかんでんとの幻の思い出である。


  • 伝説10.

マネーの虎 [編集]

2000年~2004年まで、日本テレビ系列で全国放送されていた人気番組で、今もなおYouTube等での再生回数は凄まじい数字である。またなんでんかんでん社長始め、多くの個性派社長を世に紹介した伝説的番組である。この番組がきっかけで、若者脱サラして起業を決意した人も少なくない。川原はこの番組で、5人の志願者(俺は、豚骨ラーメン屋が大嫌いだ!!と川原に言ったラーメン屋志願の男性(最終的には辞退した)、ワンコイン屋台日焼けサロン、トランスDJUTO,モンゴルでのタクシー会社)に総額2100万を投資しているが、ほとんどが廃業している。

  • 事業で成功した川原は、2001年に放送が開始されたテレビのバラエティ番組マネーの虎』に投資家として出演した。志願者がビジネスアイディアを競った同番組で川原は、音楽プロデューサーのDJ UTOのレコード会社に出資したほか、オタク実業家のチャンコ増田による「抱き枕」製作・販売のアイディアを高く評価するなどした。川原は同番組に2004年の番組終了時までレギュラー出演し、広く知られるようになった。一方、それとは対照的で南原竜樹と対立することが多く、志願者を激怒・批判するシーンもあった。特に、芸能事務所志願者の回では自身が志願者を「詐欺」呼ばわりしたことにより、収録後に社長同士が揉める事態に発展した。

歌手としては2003年、ミュージシャン氏神一番とともに音楽バンド、『ラーメンロック』を結成、2003年6月4日には同名のCDを発売した[2]。また、2005年に放送が開始されたテレビの歌番組、『歌スタ!!』(日本テレビ)でも、毎週歌を披露していた。

考案 命名[編集]

現在の活動[編集]

エピソード 逸話[編集]

  • 博多華丸富田靖子主役を務めるテレビドラマの“めんたいぴりり”のモデルとなっている辛子明太子を日本で初めて発明,命名したふくやの創業者でもある川原俊夫は川原の祖父と思われているが、実際は祖父の弟である。現会長、社長の川原健川原正孝は川原の父義充いとこである。戦前は川原の曾祖父母が富久屋という店を経営,次男俊夫が引き継いだと時にふくやと改名されている。祖父の川原義夫は株で多大なる財産を築き、博多では有名なドン的な存在であったとも・・・
  • フジテレビの月9東京湾景で仲間幸恵の恋人役を演じた俳優の和田聡宏は、数年間、なんでんかんでんで働いていた。
  • 22歳、作曲家としてデビューするが、ほとんど売れないレコードに嫌気がさした歌手が歌いたくないと新曲発表会をドタキャン、急きょ川原が歌ったという。
  • なんでんかんでんを開店する前にも後にもラーメン屋で働いたり修業したことは一度もない。出店を決意したとき、ラーメンの作り方を教えてくれる店を紹介してもらい、そこにノートとペンだけを持って習いに行った。

ありえないエピソード[編集]

  • 23歳の頃、タクシーに乗って友人の家に行った際、「お客さんがこんな細い道に入り込んだから出れなくなったじゃないか!!」とタクシーの運転手さんが激怒、何度も誘導したそうだが運転があまりにも下手で出れなかったらしい「口で言うのは簡単なんだよ!!お客さんが運転してみな!!」と言われ、川原が運転したら一発で脱出出来たという。まさか、客が運転するタクシーなんてと激怒したという。
  • 川原の祖母はカップラーメンは身体に良くないからと言って、わざわざ丼ぶりに移し替えて出してくれた。
  • 川原の幼少時代の出来事、遠足に行くと言ったら、祖母が今日は寒いからと言って、使い捨てカイロをリュックに入れてくれたそうです。ところが、揉んでも揉んでも、温かくならずで、友達も順番に揉んでくれたそうですが、それでも温かくならなかったそうです。そうしたら、それを見かねた先生が「先生が揉んであげるから・・・」と言って、力いっぱい揉んだらカイロが破れて中がボロボロ出てきたそうです。「川原!!これは麦茶のパックやぞ!!」祖母は、カイロと麦茶のパックを間違ったそうです。使い捨てカイロは、当時初めて発売されたばかりで、見慣れてない分の間違ったそうである。

出演[編集]

テレビ番組[編集]

 映画  ドラマ Vシネマ [編集]

ラジオ [編集]

 他多数

インターネットテレビ[編集]

  • アイドルの虎(あっと驚く放送局)2011年4月~6月 司会   

 他多数

海外メディア[編集]

  • 『これが日本だ!!』(SBS韓国ソウル放送)
  • 『日本の不思議“プリント海苔”工場潜入』(SBS韓国ソウル放送)
  • 『ドキュメント日本人。ラーメンブームを巻き起こした日本人密着24時間!!』(KBS韓国国営放送)
  • 『クイズ東京』(KBS韓国国営放送)
  • 『日本の文化』(CNNニュース)

舞台 演劇[編集]

  • 『桃太郎伝説 ライズアップヒーロー』2013年
  • 『ハムレット』2014年 
  • 大瀬夢二プロデュース『男のブルース』            他多数

出版物[編集]

食品等[編集]

栄誉[編集]

  • 2009年 東久邇之宮文化褒賞 受賞

=== その他=== 

  • セミナー、講演会、ライブ、イベント出演、催眠ショー等 2000回を超える

関連項目[編集]

  • 寺門ジモン - タレントで、川原の物真似も行っていた
  • 福島善成 - ものまねタレントで、川原の物真似も行っていた
  • 十文字幻斎 - 川原は、日本でトップクラスとも言われている催眠術師の十文字幻斎の一番弟子であるが、十文字という名は川原が名付けた。現在、二人はバナナスクール(東海テレビ)に準レギュラー的に出演している。
  • 境恒春 - ベトナムで元アイドル歌手として、活躍。現在は宮城県議会議員。『マネーの虎』に出演を通して、川原と出会う。一時期、川原と行動を共にしていたことがある。
  • 川原は、シルヴェスター・スタローンのモノマネで何度もテレビ出演している。

外部リンク[編集]

  1. ^ [2]なんでんかんでんアルファHP
  2. ^ 発売元はウォーブル・レコーズ(有限会社ウォーブル、東京都中央区
  3. ^ 被災した「なんでんかんでん」川原社長が語る東日本大震災の惨状リアルライブ 2011年3月29日