川原ひろし

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かわはら ひろし
川原 浩史
生誕 1964年3月13日(51歳)
日本の旗 日本福岡県福岡市博多区
出身校 九州産業大学付属九州高等学校
職業 実業家(ラーメン屋)
歌手 タレント
接客コンサルタント
セミナー講師
ショー催眠術師

川原 浩史(かわはら ひろし、1964年3月13日 - )は、全国に豚骨ラーメンを広めた日本実業家ラーメン屋経営者である。粉おとしを考案、命名したり、プリント海苔を話題にしたことでも知られている。株式会社なんでんかんでんフーズ社長[1]スタンダードポップス歌手、オペラ歌手シャンソン歌手、タレント俳優催眠術師として、テレビ舞台出演でも知られている。漫才師【Wけんじ】の最後の弟子でもある。7年間太田プロダクションに所属していたこともある。2009年、文化の日東久邇宮文化褒賞[2]受賞。西武文理大学特命特任講師。

来歴[編集]

生い立ち[編集]

貿易商の父義充と母京子の長男として福岡市博多区に生まれる。 父方は代々実業家家系である。父義充は、釜山で生まれたが、終戦と同時に日本に引き揚げてきた。地元の福岡県立修猷館高等学校から早稲田大学に入学し、卒業後は地元の銀行に入るが、のちに日中貿易会社を設立する。 祖父義夫は、長者番付の常連で投資で一財産を築くなど、福岡では有名な投資家でもあった。 また九州限定で後にフジテレビでも放送されたTNCテレビ西日本制作のテレビドラマめんたいぴりりのモデルになった日本で初めて辛子明太子開発命名した辛子明太子の生みの親でふくやの創業者の川原俊夫は川原の大叔父(祖父儀夫の弟)である。川原の祖父ではなく祖父の弟である。

一方、母方の家系はクラシック音楽美術などが溢れた芸術家庭であったという。 母京子は北京で生まれ、戦後、日本に引き揚げたあと、祖父清が建設会社の設立のため宮崎[要曖昧さ回避]移住する。川原は幼い頃から母に連れられ、クラシックの演奏会美術展覧会など頻繁に行ったという。また食も教養だという母の教育方針から、あらゆる料理を食べに連れていかれたという。母自身も、ピアノや絵を描く他、一時期は料理教室もやっていた。音楽の好みも幅広く、クラシック以外に、演歌ロックタンゴシャンソンなど、音楽のジャンルにこだわらず聞いていたそうである。ちなみに川原は母が買った来たレコードイギリスハードロックバンドディープ・パープルファンになったという。母は、我が子には正統派の音楽教育を受けさせたいとの思いから4歳から多くのクラシック音楽家輩出した福岡音楽界の名門福岡音楽学院付属幼稚園に入園させる。当初、ヴァイオリンを専攻したが、手が小さかったことと母と先生との確執があり、ピアノ声楽に転向した。幼い頃は絶対音感もあったという。

小学校は市立当仁小学校に進んだが、低学年まで放課後は音楽学院にも通っていた。母親が教育熱心ということもあってか、毎日の習い事が逆効果となり、勉強が嫌いになったという。それでも母親は私立の中学に入れたく受験させるも失敗。母は息子に呆れ、小学校卒業と共に、大阪寝屋川の親戚に預けられ、寝屋川第三中学校に入学する。大阪に行っても博多弁を貫いたことから人気者となった。12歳で親元を離れ淋しい思いをしたが、川原を慰めてくれたのは、当時全盛だったラジオだった。特にラジオから流れてくる歌謡曲は川原の淋しい心を癒してくれたという。そして、この時期に歌手になると決めた。当時、大好きだった歌手は西城秀樹野口五郎郷ひろみ布施明尾崎紀世彦本郷直樹である。本郷直樹は、川原の親戚である。翌年、淋しさのあまり、大阪の中学校から中学2年からは博多の中学に戻っている。高校に進学するとロックに夢中になり、将来はロックギタリストになりたいと腕を磨いたが、卒業寸前になり、やはりクラシック音楽の魅力には勝てないと、一浪したのち、突如オペラ歌手を目指す。

音楽を目指して上京[編集]

一時期は音大を目指すも実力不足で断念。地元には結婚まで考えていた彼女がいたが、それでも歌手にはなりたいと親戚の大手プロダクションバーニングプロダクション第一号所属タレントで和製プレスリーとして一世を風靡した歌手の本郷直樹を頼って上京する。その後、22歳の時、日本棋院の関係者の依頼で作曲家として東芝レコードから演歌打碁一代でデビューしている。 「打ち碁一代」の音楽プロデューサーであり編曲家の鈴木童夢は専門がタンゴシャンソンであったこともあり、川原と意気投合。の紹介で、丸山明宏(現・美輪明宏)金子ゆかりなど輩出した日本シャンソン界の殿堂で、川原にとって憧れの“銀巴里“のステージにも立つ。

Wけんじに弟子入り[編集]

ひょんなことから漫才界の大御所「Wけんじと出逢い、前座歌手として雇われる。しかし、Wけんじは川原のこと売れない演歌歌手だと思って雇ったところが、「Wけんじのファンは年寄りが多いんだよ、シャンソンとかクラシックとか歌われても困るんだよね」と言われ解雇される。しかしながら、しゃべりが達者だった川原に「お前はしゃべりも上手いなー、歌もいいけど、しゃべりを勉強したら仕事いっぱいあげるよ」と言われ、正式にWけんじの弟子となる。そして、往年の大スター春日八郎をはじめ、和田弘とマヒナスターズ玉川カルテット松竹演芸場[要曖昧さ回避]など昭和に活躍したスター、あらゆるジャンルの場で司会を務めるなどした。後に単独で芸人となり、一時期漫才コンビを結成したこともある。しかし、食べて行くには程遠く、ホストクラブで歌手をやらせてもらいながら、ホストもやっていた。その他マクドナルドポスティング銀座のクラブのボーイ看板取り付け工事結婚式の司会ホステスの送りの運転手新聞販売店など、特に新聞販売店ではは芸を披露するなどして、新規開拓で一日最高7万円を稼いだこともあるという。

東京のラーメンにショック[編集]

川原は上京当時からどうしても馴染めない食べ物が二つあった。一つはうどん、そして、もう一つがラーメンだった。川原が一番驚いたのが博多では当たり前の豚骨ラーメン東京にはなかったことだ。[ラーメン、うどん、チャンポンを食べる為だけに帰省していたそうだ。その後、都内にも博多ラーメン豚骨ラーメンの看板を掲げる店が出来たものの、すべてが偽物のなんちゃって豚骨、[博多もんを騙すんじゃない!」と激怒して店を出て行ったという。当時、川原は福岡県人会に入っており、青年部の会合で集まった福岡[要曖昧さ回避]の若者は声を揃えて「本物の豚骨ラーメンが食べたかー!」と言っていたそうだ。この時、「俺がやろうかなー」と思ったこともあったそうだが、幼少の頃から見ていたラーメン屋のイメージは臭い、汚い、カッコ悪いと三拍子揃った3Kだったので、真剣には考えなかったという。それより、ステージで脚光を浴びる歌手にまだ魅力を感じていたという。

ラーメン店開業を決意[編集]

昭和59年、シャンソンワンマンショーをやった際のことである。毎回、ショーが終わるとお客様一人一人に必ずご挨拶とお見送りをするが、最後の最後まで帰らない年配女性がいたという。そして、川原に近づいて来てこんなことを言ったという。「あなたの声と歌は素晴らしいと思います。でも、シャンソン人生歌い上げる大人の歌です。あなたは人生経験が足りなさすぎる。シャンソンを歌うには若すぎると思います。せっかく素晴らしい歌詞感情が伝わらないんじゃねー。シャンソンは20代、30代で歌うより40、50歳を過ぎて歌った方がいいのよ。人生でもっと苦労しなさい。シャンソンを歌いたいなら、もっと歳を重ねてから歌うことを勧めるわ」って言われたんです。実は、その言葉が川原を生き方をとっても楽にさせたという。実は、川原の中では若い時を逃すと歌手としてのデビューは絶望的だと考えていた。当時売れていた歌手の大半が若くしてデビューし、ヒット曲を出していたことで、川原の中に少なからずとも焦りがあったという。しかし、川原はそもそも大人にアピール出来る歌唱力で勝負したいと考えていただけ励みになるだけでなく、大変勇気づけられたそうだ。川原は自分の人生を変えたと言っても過言でないこの女性に感謝して、是非直接お逢いして御礼を申したいが、手がかりもなく連絡先も分からず後悔しているという。僕が目指す大人の為の音楽は急ぐ必要がないんだ!もっともっと歌唱力を磨いて、人生経験を積んでから再挑戦しようと決めたのだった。[俺の目指す音楽は急ぐ必要がないんだ!もっと人生経験を積んで、再挑戦しよう」。そう決めたら、「何か他のことをやろう!」川原はそもそも目立ちたがりの精神が誰よりも強かった。「今やって注目を浴びるこをやらねば・・・」そう考えた時、迷わず選んだのが豚骨ラーメンだった。それ以来、毎日ラーメンのことばかりを考えるようになる。それは夢の中でも同じで、毎晩のように行列が出来る店の中で自身がラーメンを作っている姿が出てきたという。しかし現実問題、こってり豚骨ラーメンが東京人の味覚に合うものか・・・?川原の父は、「東京は東北文化が強い、もしやるなら東京人好みにアレンジせねば、商売は難しいぞ!」と言ったそうである。しかし、決して若くない父の意見を参考にしても仕方ない、博多でもある程度の年齢に達するとラーメンよりうどんを好むし、歳と共にあっさりした味を好むのはどこでも同じ、そもそも自分は若い人が好むラーメンを提供したい、「博多にはもっと美味いラーメンもあるとぜ!」ということを知ってもらいたいたかったという。「草食系の東京人に、肉食系の豚骨ラーメンを食わせてやりたい」と思っていたそうだ。

なんでんかんでんオープン[編集]

1987年7月、東京都世田谷区の幹線道路・環七通り沿いにとんこつラーメン店、『なんでんかんでん』を開業する。

マネーの虎[編集]

  • 事業で成功した川原は、2001年に放送が開始されたテレビのバラエティ番組マネーの虎』に投資家として出演した。志願者がビジネスアイディアを競った同番組で川原は、音楽プロデューサーのDJ UTOのレコード会社に出資したほか、オタク実業家のチャンコ増田による「抱き枕」製作・販売のアイディアを高く評価するなどした。川原は同番組に2004年の番組終了時までレギュラー出演し、広く知られるようになった。一方、それとは対照的で南原竜樹と対立することが多く、志願者を激怒・批判するシーンもあった。特に、芸能事務所志願者の回では自身が志願者を「詐欺」呼ばわりしたことにより、収録後に社長同士が揉める事態に発展した。

歌手としては2003年、ミュージシャン氏神一番とともに音楽バンド、『ラーメンロック』を結成、2003年6月4日には同名のCDを発売した[2]。また、2005年に放送が開始されたテレビの歌番組、『歌スタ!!』(日本テレビ)でも、毎週歌を披露していた。

考案・命名[編集]

出演[編集]

テレビ番組[編集]

インターネットテレビ[編集]

  • アイドルの虎(あっと驚く放送局)2011年4月 - 6月 司会

海外メディア[編集]

  • 『これが日本だ!!』(SBS韓国ソウル放送)
  • 『日本の不思議“プリント海苔”工場潜入』(SBS韓国ソウル放送)
  • 『ドキュメント日本人。ラーメンブームを巻き起こした日本人密着24時間!!』(KBS韓国国営放送)
  • 『クイズ東京』(KBS韓国国営放送)
  • 『日本の文化』(CNNニュース)

舞台 演劇[編集]

  • 『桃太郎伝説 ライズアップヒーロー』2013年
  • 『ハムレット』2014年
  • 大瀬夢二プロデュース『男のブルース』

出版物[編集]

食品等[編集]

栄誉[編集]

  • 2009年 東久邇之宮文化褒賞 受賞

脚注[編集]

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  1. ^ [1]なんでんかんでんアルファHP
  2. ^ 発売元はウォーブル・レコーズ(有限会社ウォーブル、東京都中央区

関連項目[編集]

  • 寺門ジモン - タレントで、川原の物真似も行っていた
  • 福島善成 - ものまねタレントで、川原の物真似も行っていた
  • 十文字幻斎 - 川原は、催眠術師の十文字幻斎の一番弟子であるが、十文字という名は川原が名付けた。二人はバナナスクール(東海テレビ)に準レギュラー的に出演している。
  • 境恒春 - ベトナムで元アイドル歌手として、活躍。現在は宮城県議会議員。『マネーの虎』に出演を通して、川原と出会う。一時期、川原と行動を共にしていたことがある。

外部リンク[編集]