崔無詖

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崔 無詖(さい むひ、? - 755年天宝14載))は、玄宗朝の地方官。本貫博陵郡安平県

楊国忠に用いられ、滎陽郡太守となったが、安史の乱において安禄山側に捕らえられ、処刑された。

経歴[編集]

長安の出身。本籍は名門の山東四姓の一つ、博陵の崔氏であった。崔無詖の父の崔従礼は韋皇后の母の兄弟にあたり、韋皇后の恩顧を被っていた中書令蕭至忠の娘と婚姻していた。

景雲4年(710年)、韋皇后と蕭至忠が皇子の李隆基(後の玄宗)によって殺されると、坐して左遷させられた。

開元年間、益州司馬となっていた時、新都県尉の楊国忠と親交があった。後日、楊国忠に引き立てられ、陝郡太守から少府監・滎陽郡太守に就任した。

安史の乱勃発後、安禄山の軍が陳留を陥落させて、河南節度使張介然ら兵を皆殺しにした上で西進してきた。この時、兵を募って拒んだが、勢いにのる安禄山軍の喧噪に城内は震え上がり、兵は自ら城壁から墜落していったと伝えられる。

崔無詖らは捕らえられて殺された。安禄山側の武令珣が滎陽をおさえることとなった。

死後、礼部尚書を贈られ、毅勇とされている。

伝記資料[編集]

  • 旧唐書』巻百八十七下 列伝第百三十七下「忠義下・崔無詖伝」
  • 新唐書』巻百九十一 列伝第百十六「忠義上・崔無詖伝」