崇仁 (京都市)

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崇仁(すうじん)は、京都府京都市の地区名。「崇仁地区」と呼ばれる京都駅の東側の一帯で、人口は約1300人。長年差別的な扱いを受けてきた地区として知られる[1]。2023年度に京都市立芸術大学が移転する計画がある[1]

歴史[編集]

概史[編集]

崇仁は特殊な職業に就く人や在日コリアンなど、差別的な扱いを受けていた人々の多く住む地区であり、独自のコミュニティを形成し、結果長い間アンタッチャブルな地域として扱われてきた[2]

16世紀前半、六条河原が処刑場になり河原者と呼ばれた人々数百から千人によって刑務が行われていた。以降、六条河原からの六条郷移転(成立時期は不明)や豊臣秀吉による御土居の築造を経て、江戸時代1663年、六条郷が松原稲荷町から六条河原役田地へ移転し六条村が成立した[3]

1698年元禄11年)、京糸割符仲間奉行所に銭鋳造の許可を願い出た。七条高瀬川ぎわ6400坪の土地に許しが出たため、1700年(元禄13年)2月13日から寛永通宝の鋳造を開始。1707年宝永4年)、幕府は鋳造を宝永通宝へと変更するも不評だったため、1709年(宝永6年)1月23日には鋳造を停止した。銅鋳造の跡地は銅気が多く耕作に向かないため、永らく放置された。 1713年正徳3年)、六条村へ皮張場含め3000坪の柳原庄の土地が渡され、「水車裏」に非人と呼ばれた人々が移転した。1731年享保16年)には天部村年寄・源左衛門と六条村年寄・与三兵衛が京糸割符仲間が手放した銭座場跡に新しい村を開発することを願い出て、銭座跡村7000坪以上に開発許可が出た。これが今日の崇神地区南部の起源となった[3][4]1843年天保14年)には六条大西組が成立した[3]

明治に入り、1871年明治4年)に解放令発布。 1889年(明治22年)には市町村制が施行され、愛宕(おたぎ)郡から紀伊郡に編入され、柳原町となった。住民は既存の銀行を使うことが出来なかったため、1899年(明治32年)合資会社柳原銀行が設立。1907年(明治40年)には柳原銀行は現建物となり、柳原銀行記念資料館として現存し差別の歴史を伝えている[2][3]。銀行自体は1927年(昭和2年)に破産している。1918年大正7年)、紀伊郡柳原町は京都市に編入された[3]。同年柳原町で米騒動が起き、同地区では被差別者50人以上が逮捕された[5]

在日コリアン[編集]

明治期以降、土地所有を認められた七条の被差別者らが人口増加によって畑地であった東九条地域に進出。その後を追うようにして、植民地支配のもとで自発的・非自発的に朝鮮半島から渡日した人々が周辺に居住することになった[6]。また、長らく日本人の被差別者らと在日韓国・朝鮮人の関係も良好と言えるものではなかった[6]。近年では日本人と在日コリアンの交流の場として、「東九条マダン」(マダン〈 마당 〉は朝鮮語で広場の意味)が1993年から開催。在日コリアンの多い南区東九条で開催されてきたが、26回目の開催となった2018年には初めて東九条を出て下京区旧崇仁小学校で開催した [6][7][8]

住民の活動[編集]

高度経済成長期においてもインフラ整備が遅れ、発展から取り残された。住環境は劣悪であったが、1956年に住民の運動を受け、京都市は地区内のバラックを買い上げ改良住宅を建設した。ピーク時には人口は9000人以上に上った[1]1991年平成3年)には「崇仁地区の文化遺産を守る会」が、1996年(平成8年)には 「崇仁まちづくり推進委員会」が発足。先述の柳原銀行記念資料館は1997年(平成9年)に開館した[3]

2001年、市は老朽化した崇仁の改良住宅4棟の建て替えを計画したが、財政難を理由に実現しなかった。しかし、2014年京都市立芸術大学の崇仁へのキャンパス移転が決まると、市は1年あまりで空き地だった市有地に公営住宅を新設。大学の建設予定地の改良住宅7棟に2021年4月以降の取り壊しが計画されるなど、住人は事実上の立ち退きを迫られることになった[1]2019年9月の京都市による地元説明会では、都市計画の用途地域を変更して容積率などを緩和する素案が示されたが、住民側からは疑問が示された。同年10月には同地区内東九条南河原町にある「THEATRE E9 KYOTO」で、市の素案には地元意見が十分反映されていないとの危機感から劇場関係者らが緊急シンポジウムを開催。地元住民ら100人が参加した。シンポジウムでは、地域の文化活動関係者や識者によって芸術家や地域住民が住むことができる地域づくりの重要性が指摘された[8][9]

崇仁新町[編集]

2018年2月、市は大学移転までの空白期間における崇仁地区の活用のため、「崇仁新町」と名付けられたコンテナの屋台街を建設。出店しているのは地元の若手飲食店主たちで、コンテナの前は飲食スペースになり、奥には芸大生が絵を描いた舞台やたき火のできるイベントスペースなども作られた[10]

地理[編集]

東九条は主に在日コリアンが集まる居住区で、韓国料理店が多い[2]2005年公開の日本映画「パッチギ!」ではリ・アンソンと妹のキョンジャの居住する地域に設定され、作内でも同地が度々登場した[11]

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d 関西テレビ放送. “特集コーナー 2019年12月10日 報道ランナー 関西テレビ放送 カンテレ” (日本語). www.ktv.jp. 2020年6月19日閲覧。
  2. ^ a b c 【だれも知らない京都】昨日と、京都、明日と<崇仁地区/東九条>” (日本語). URBAN RESEARCH MEDIA. 2020年6月19日閲覧。
  3. ^ a b c d e f 崇仁地区の概要・崇仁地区の歴史”. suujin.org. 柳原銀行記念資料館. 2020年6月19日閲覧。
  4. ^ 銭座跡村”. suujin.org. 柳原銀行記念資料館. 2020年6月19日閲覧。
  5. ^ 三谷秀治『火の鎖 和島為太郎伝』p.74-75(草土文化、1985年)
  6. ^ a b c 京都観察いま・むかし:八木先生の覚え書き/56 東九条マダンの挑戦 コリアンと部落民衆の「再会」 /京都” (日本語). 毎日新聞. 2020年6月28日閲覧。
  7. ^ 東九条マダン:崇仁で 26回目、初めて地域外へ 打楽器演奏やお囃子会 3日 /京都” (日本語). 毎日新聞. 2020年6月28日閲覧。
  8. ^ a b 「市側と話し合う場を」 京都駅東南部、都市計画巡りシンポ 識者から指摘相次ぐ /京都” (日本語). 毎日新聞. 2020年6月28日閲覧。
  9. ^ 京都駅東南部エリアの都市計画の見直しで「緊急シンポ」 アーティストら討論”. 烏丸経済新聞. 2020年6月28日閲覧。
  10. ^ 京都で「見過ごされた町」が人気化するワケ 街・住まい” (日本語). 東洋経済オンライン (2018年9月12日). 2020年6月19日閲覧。
  11. ^ 舞台をゆく:京都市南区東九条など(映画「パッチギ!」) ひしめく命、原色の記憶” (日本語). 毎日新聞. 2020年6月28日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]