島津 (京丹後市)
島津 | |
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島津の街並み | |
| 国 |
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| 都道府県 | 京都府 |
| 市町村 | 京丹後市 |
| 大字 | 網野町島津 |
| 人口 (2010年国勢調査) | |
| • 合計 | 1,175人 |
| 等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
| 郵便番号 |
629-3121 |
島津(しまづ)は、京都府京丹後市にある地名。大字としての名称は網野町島津(あみのちょうしまづ)。
地理
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網野町の北東部にあり、東側は弥栄町に隣接している[1]。北には琴引浜などの日本海海岸部、東には弥栄町の中心部、南には峰山町の中心部、西には網野町の中心部がある交通の要衝である[2]。集落北東には尾坂山があり、集落南西には愛宕山がある[3]。
離湖の南東部に集落が形成されており[4]、大字の中央部を流れる大橋川が離湖に注いでいる[1]。離湖の近くには広大な水田が広がっている[1]。東西に京都府道53号網野岩滝線が、南北に京都府道663号掛津峰山線が通っており、両府道の交差点付近に集落が形成されている[1]。
地形
[編集]- 湖沼
- 山岳
島津連合区
[編集]2020年(令和2年)10月1日時点の島津の世帯数は464世帯、人口は1175人である。愛宕区、大谷区、大橋区、春日区、島津口区、溝川区の6区によって島津連合区を構成している[5]。
- 島津連合区を構成する区
- 愛宕区 - 人口は101世帯、312人(2012年12月末)[5]。
- 大谷区 - 人口は69世帯、172人(2012年12月末)[5]。
- 大橋区 - 人口は67世帯、185人(2012年12月末)[5]。
- 春日区 - 人口は54世帯、156人(2012年12月末)[5]。
- 島津口区 - 人口は167世帯、464人(2012年12月末)[5]。
- 溝川区 - 人口は48世帯、134人(2012年12月末)[5]。
歴史
[編集]古代
[編集]溝川谷には6世紀ころの円墳とされるくらがり1号墳・2号墳がある[3]。かつてこの地域は河続海(かつみ)と呼ばれる淡水湖の湖底だった[6]。
中世・近世
[編集]室町時代の長禄年間(1457年~1460年)に編纂されたと伝わる『丹後国田数帳』に見える「嶋庄」の地に比定されている[3]。室町時代に編纂された『丹後国御檀家帳』に登場する「みそ川」や「しま」も島津を意味するとされる[3]。
集落南西の丘陵上の標高180メートル地点には、網野町域最大の城館である島津城跡がある[2]。『丹後国御檀家帳』には石河中務丞殿が城主であると記されている[2]。
慶長10年(1605年)の『慶長検地郷村帳』における島村の石高は932.64石であり、島村之内溝川村とも記されている[3]。
島溝川の下流側にある離湖から流出する河川は少なく、大雨が降って水位が上昇すると周辺の田畑が冠水した[7]。そこで延宝2年(1674年)、網野の小左衛門と島溝川の久兵衛などが協力して隧道の開削を計画し、延宝4年(1676年)に離湖と日本海を結ぶ樋越川が完成した。
延宝3年(1675年)の郷村帳には島村と記されているが、延宝9年(1681年)には島溝川村と記されている[3]。その後、島溝川村から仲禅寺村が分離され、宝永2年(1705年)の『宮津領辻高帳』における島溝川村の石高は1292石余だった[3]。
江戸時代はもっぱら宮津藩領だったが、寛文6年(1666年)から寛文9年(1669年)、延宝8年(1680年)から延宝9年(1681年)、享保2年(1717年)から宝暦9年(1759年)には幕府領であった[3]。文政5年(1822年)には百姓による強訴が行われ、島津村出役庄屋宅が打ち壊しに遭っている[3]。
近代
[編集]1889年(明治22年)には町村制施行により、島溝川村、仲禅寺村、掛津村、三津村、尾坂村の5村が合併して竹野郡島津村が発足し、島津村の大字として島溝川が設置された[4]。島津という地名は、島溝川の「島」、掛津と三津の「津」を合わせた合成地名である[8]。
1927年(昭和2年)3月7日に発生した北丹後地震において、島溝川では総戸数276戸のうち96%に相当する265戸が倒壊し、45%に相当する124戸が焼失するという建物被害を受けた[9]。人的被害としては死亡率13%、負傷率11%を記録しており、峰山町を除く地域では最も高い死亡率を記録した集落である[9]。島溝川は北丹後地震の主因となった地震断層の郷村断層から2.9kmの距離にあり、仲禅寺断層に沿った場所にあった[9]。地震後には蓮華寺と京丹後市勤労者と子どものセンターに震災供養塔が建立された。
1938年(昭和13年)には島津漁業協同組合が発足した[4]。1939年(昭和14年)には島津保育園が開設され、1940年(昭和15年)には島津郵便局が開設された[4]。
現代
[編集]1950年(昭和25年)4月1日には島津村が網野町に編入され、網野町の大字として島溝川を改称した島津が設置された[4]。
1982年(昭和57年)時点の世帯数は317世帯、人口は1482人だった[1]。
2004年(平成16年)4月1日には網野町など6町が合併して京丹後市が発足し、京丹後市の大字として網野町島津が設置された。2017年(平成29年)4月には島津にある足米機業場が日本遺産「丹後ちりめん回廊」の構成文化財に認定された。
島津連合区の有志によるしましまベースというチームがあり、「しましまファーム」と「しましまハウス」をプロジェクトの軸として活動している[10]。「しましまファーム」は農業体験などを行う事業であり、2021年(令和3年)から島津小学校脇の空き地を活用して種まきや田植えなどを行っている[10]。「しましまハウス」は空き家活用の事業である[10]。
教育
[編集]京丹後市立島津小学校
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1873年(明治6年)には島溝川村と仲禅寺村の両村によって島溝川校が創立された[11]。1877年(明治10年)には糸井庄左衛門屋敷に島溝小学校が創立され[11]、1879年(明治12年)には嵯峨根けんりゅうの屋敷に2階建校舎が新築された[12]。後に島溝尋常小学校、島溝尋常高等小学校に改称した。1925年(大正14年)に島津尋常高等小学校に改称すると、1926年(大正15年)には三津小学校を統合して分校とした[11]。
1927年(昭和2年)3月7日に発生した北丹後地震では島津尋常高等小学校も大きな被害を受けている[12]。地震後の1929年(昭和4年)には現在地に校舎を新築した[11]。1941年(昭和16年)には国民学校令によって島津国民学校に改称した[11]。
1947年(昭和22年)には学校教育法によって島津村立島津小学校に改称した。1949年(昭和24年)には島津小学校から三津小学校が分離独立した[11]。1950年(昭和25年)4月1日には島津村が網野町に編入され、網野町立島津小学校に改称した[11]。1963年(昭和38年)には鉄筋コンクリート造2階建の新校舎が完成した[12]。2000年(平成12年)には第20回全国豊かな海づくり大会で会長賞を受賞した[12]。
2004年(平成16年)4月1日には京丹後市が発足し、京丹後市立島津小学校に改称した[11]。2012年(平成24年)3月には(旧)島津小学校、三津小学校の2校が閉校となり、同年4月には(旧)島津小学校の敷地に(新)島津小学校が開校した[13]。2015年(平成27年)にはアメリカ合衆国マサチューセッツ州のマンチェスター・メモリアル小学校との交流を開始し、2017年(平成29年)にはイングレウッド・プライマリースクールとの交流を開始した[12]。
施設
[編集]- 京丹後市立島津小学校[1]
- 網野島津郵便局[1]
- 京丹後市勤労者と子どものセンター[1] - 通称は母子センター。旧称は網野町勤労夫人と子どものセンター。敷地内には1927年(昭和2年)に起こった北丹後地震の震災供養塔がある。
- 島津ふれあいセンター - 島津連合区の公民館。
- 網野町島津4団地 - 国営農地。丹後国営農地開発事業の先陣となった団地である[14]。1984年(昭和59年)から1985年(昭和60年)に造成され、1989年(平成元年)に営農が開始された[15]。造成面積は17.4ヘクタール、営農面積は15.0ヘクタールであり、採種などに用いられている[15]。
- 島津駐在所
- 島津保育所
- お試し住宅「ニケ荘」 - 2016年(平成28年)から、機織工場をリノベしたシェアハウスとして京丹後市が網野町島津お試し住宅を運営していた。京丹後市による運営が2024年(令和6年)に廃止されると、民間の有志によってお試し住宅「ニケ荘」の運営が開始された[16]。
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京丹後市勤労者と子どものセンター
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京丹後市勤労者と子どものセンターにある震災記念碑
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網野町島津4団地
足米機業場
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足米機業場(あしよねきぎょうじょう)は、大型ののこぎり屋根工場を有する丹後ちりめんの機業場である。日本遺産「丹後ちりめん回廊」の構成文化財となっている。
創業は天保元年(1830年)であり、丹後地方に現存する最も古い機業場である[17]。1922年(大正11年)9月に株式会社足米機業場が設立された[17]。1927年(昭和2年)の北丹後地震では機業場の建物や織機50台が全焼したが[17]、翌年の1928年(昭和3年)には現存する機業場が竣工した[18]。木造平屋建の洋小屋組、桁行は17間、梁間は2間から3間である[18]。当主の足立米治は島津村村長も務めた[17]。戦前から昭和30年代頃には女工寄宿舎が竣工しており、丹後ちりめんの機業場では現存する希少な寄宿舎とされる[17]。1967年(昭和42年)から1968年(昭和43年)には渡廊下を介して新たな工場も竣工した[17]。
名所・旧跡
[編集]- 春日神社 - 島津村の旧村社[3]。祭神は大日孁尊、天児屋根命、武甕槌命、経津主神[3]。毎年10月には春日神社・床尾神社の例祭が開催され、太刀振り、神輿の巡行、奉納相撲などが行われる[5]。
- 愛宕神社[1]
- 溝川神社[1]
- 蓮華寺 - 曹洞宗の寺院[1]。山号は雲渓山。天和2年(1682年)の『丹後国寺社帳』には「島村 蓮花寺」と記されている[3]。室町時代の作と伝わる尾坂寺の宝篋印塔は島津の内田家へ移設され、その後蓮華寺に移設された[19]。この宝篋印塔は「元尾坂寺宝篋印塔」として京丹後市指定文化財に指定されている[19]。また、1927年(昭和2年)に起こった北丹後地震の震災供養塔がある。
- 島津城跡 - 集落南西の丘陵上にある城館跡。
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春日神社
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蓮華寺
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蓮華寺の震災供養塔
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 26 京都府 下巻』角川書店、1982年、p.635
- ^ a b c 島津城跡 京都府教育委員会
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『日本歴史地名大系 26 京都府の地名』平凡社、1981年、p.823
- ^ a b c d e 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 26 京都府 上巻』角川書店、1982年
- ^ a b c d e f g h i 島津について 島津連合区
- ^ 「かつては河続海が広がる岸辺の村だった 網野町島津」『もりもり』わやだわや編集室、76号、2016年11月26日
- ^ 上田正昭、吉田光邦『京都府大事典 府域編』淡交社、1994年、p.433
- ^ 『京都地名語源辞典』東京堂出版、2013年、p.281
- ^ a b c 大邑潤三「1927年北丹後地震における建物倒壊被害と地形の関係」『自然災害科学』35巻2号、2016年、pp.121-140
- ^ a b c 島津のくらし 島津連合区
- ^ a b c d e f g h 『京都大事典 府域編』淡交社、1994年、p.269
- ^ a b c d e 京丹後市立島津小学校 沿革史 京都府
- ^ 京丹後市立島津小学校 京都府
- ^ ふるさとわがまち 島津区 京丹後市
- ^ a b 国営農地(1)網野町島津4団地 京丹後市
- ^ 京丹後にお試し住宅「ニケ荘」 移住検討者・短期滞在者の利用呼びかけ 京丹後経済新聞、2025年5月13日
- ^ a b c d e f 京丹後市史編さん委員会『京丹後市のまちなみ・建築』京丹後市、2017年、pp.347-355
- ^ a b 京丹後市史編さん委員会『京丹後市のまちなみ・建築』京丹後市、2017年、pp.329-333
- ^ a b デジタルミュージアムC2元尾坂寺宝篋印塔 京丹後市
参考文献
[編集]- 網野町史編纂委員会『網野町史』網野町役場、1960年
- 網野町誌編さん委員会『網野町誌 上巻』網野町、1992年
- 網野町誌編さん委員会『網野町誌 中巻』網野町、1994年
- 網野町誌編さん委員会『網野町誌 下巻』網野町、1996年
- 島津小学校創立百周年記念事業準備委員会『網野町立島津小学校創立百周年記念誌』網野町立島津小学校、1973年
- 『日本歴史地名大系 26 京都府の地名』平凡社、1981年
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 26 京都府 上巻』角川書店、1982年
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 26 京都府 下巻』角川書店、1982年
- 『京都大事典 府域編』淡交社、1994年
外部リンク
[編集]- しましま 島津連合区公式サイト
- ふるさとわがまち 島津区 京丹後市
- 島津 丹後の地名