岩谷松平

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岩谷 松平(いわや まつへい、1850年6月[1][2] - 1920年3月10日)は、薩摩国鹿児島県)出身の実業家政治家岩谷商会会長。別名、岩谷天狗。

経歴[編集]

薩摩国薩摩郡隈之城郷東手村の向田町(現在の薩摩川内市)にて、郷士・岩谷卯之助の二男として生まれる。1858年に母と死別。1863年に父をも失ったため、酒造業を営む本家・岩谷松兵衛の養子となる。

1877年8月、東京銀座に薩摩物産販売店"薩摩屋"を開き、成功を収める。このころ、自邸内に20数人の愛人を囲い、男女21人の子を儲けて話題となった。1880年5月に煙草販売業「天狗屋」を開業した。しかし1881年同業者に訴えられ東京裁判所より身代限(破産)を申し渡される[3]

日清戦争の際にはに煙草を納入し、これは後の『恩賜のたばこ』のもととなった。煙草産業の大立者となり、東洋煙草大王の異名を取る。店頭に「勿驚(おどろくなかれ)税金たつた百萬円」「慈善職工五萬人」と大きく書くなどして、自分の事業が国益に貢献しており、「国益の親玉」であるとアピールした。煙草産業以外にも、共同運輸会社、帝国工業会社、大日本海産会社、ラムネ会社、東京食用鳥獣会社、東京取引所銀行などの創立に関与。1901年長者番付では、服部時計店(現、セイコー)創業者の服部金太郎と共に最上位となった。

1901年5月から1903年6月まで東京市会議員を務める。1903年3月、第8回衆議院議員総選挙に東京府東京市区から出馬し、新代議士として最高点で当選。しかし1904年3月、専売法制定によって営業権を政府に奪われて、1905年11月に廃業。その後は不遇となり、写真の入った位牌を販売するなどしていたものの、脳卒中のために半身不随となって晩年を過ごした。1万3000坪の自邸にて、脳溢血で没。東京都渋谷区猿楽町の旧居跡には、岩谷天狗山という地名が残っている。

親族と子孫[編集]

正妻と愛人たちに生ませた子供の総数は53人にのぼり、そのうち次男の岩谷二郎ベルギー大使となった。二郎の息子岩谷満は探偵小説専門出版社岩谷書店の創業者で、探偵小説誌『宝石』を創刊した。満の息子・岩谷温は、英会話学校・NOVA,GEOSを経営する自分未来アソシエの代表取締役会長。

松平の孫の岩谷広子は声楽家。このほか、長男松蔵の娘森赫子女優となった。

紀田順一郎『私の神保町』(晶文社2004年)によると映画監督山本嘉次郎も松平の孫とのことだが詳細は不明である。 なお、安部譲二の母方の祖母は松平の親族にあたる。[4]

岩谷と広告[編集]

岩谷は派手な広告で事業をアピールした。岩谷はシンボルマークとして丸に十[5]、イメージキャラクターとして天狗を用いた。またシンボルカラーとして赤を採用し、赤づくめの衣装を着て、赤い馬車に乗って街中を練り歩き、人々に声をかけた。岩谷は自邸も赤で統一しており、妻の葬儀の際には赤い棺を用いたという。

商売敵であった村井商会村井吉兵衛も大規模な広告で対抗し、白いのぼりを揚げた楽隊に商品のテーマソングを演奏させて行進した。両社の広告合戦はエスカレートし、時には騒動をもたらすこともあった。

また、赤い馬車に乗った岩谷に声をかけられた一人が、電通創始者の光永星郎であった。光永はこのことがきっかけで広告に関心を持つようになったという。

脚注[編集]

  1. ^ 参考文献『日本近現代人物履歴事典』75頁では、嘉永2年2月2日(1849年2月24日)。
  2. ^ 嘉永2年6月3日『岩谷松平と東京市民』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  3. ^ 「岩谷松平身代限」朝野新聞1881年3月16日『新聞集成明治編年史. 第四卷』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  4. ^ ライバル日本史、236-237頁
  5. ^ 煙草産地で知られていた薩摩にちなむものであるが、島津家家紋と異なり十の上下は丸とは接していない。後に島津家からクレームがついたが「ウチの丸十は島津家とは別物である」として退けた。

参考文献[編集]

  • 紀田順一郎『カネが邪魔でしょうがない』新潮社、2005年。
  • 荒俣宏『黄金伝説』集英社、1990年。
  • 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度七十年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1962年。
  • NHK取材班編 『ライバル日本史』1 宿敵 角川文庫 1996年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]