コンテンツにスキップ

岩松義雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
岩松 義雄
生誕 1886年5月3日
日本の旗 日本 愛知県
死没 (1958-04-18) 1958年4月18日(71歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1905 - 1942
最終階級 陸軍中将
テンプレートを表示

岩松 義雄(いわまつ よしお、1886年明治19年)5月3日[1][2] - 1958年昭和33年)4月18日[1][2])は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

[編集]

尾張藩士・岩松義行の長男として生れる[1]愛知一中名古屋陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1905年3月、陸軍士官学校(17期)を卒業、翌月、陸軍少尉に任官し歩兵第10連隊付となる[1][3]1918年11月、陸軍大学校(30期)を卒業した[1][4]

歩兵第61連隊中隊長、参謀本部付勤務、参謀本部付(支那駐在)、参謀本部員(支那課)、参謀本部付(上海駐在)、参謀本部員、欧州出張、台湾歩兵第1連隊付、台湾歩兵第2連隊長、第5師団参謀長、参謀本部支那課長、参謀本部付(南京駐在)などを経て、1934年3月、陸軍少将に進級する[1][4]

歩兵第21旅団長、台湾守備隊司令官などを歴任し、1937年8月、陸軍中将となった[1][2][4]。第1独立守備隊司令官を経て、第15師団長として中国で転戦[1][2]中部防衛司令官、1940年8月、中部軍司令官[5]を経て、第1軍司令官として中国で活動した[1][2][4]1942年8月1日には軍事参議官[6]となり、同年12月、予備役に編入され、翌年12月、新民会最高顧問に就任した[1][2]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[7]

栄典

[編集]

家族親族

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k 『日本陸海軍総合事典』第2版、24頁。
  2. ^ a b c d e f 『日本陸軍将官辞典』112-113頁。
  3. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』216、219頁。
  4. ^ a b c d 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』219頁。
  5. ^ 梅津美治郎、山田乙三が大将に進級『東京日日新聞』(昭和15年8月2日夕刊)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p781 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  6. ^ a b 『官報』1942年8月3日 叙任及辞令 「昭和十七年八月一日 陸軍中将 正四位 勲一等 功三級 岩松義雄 補軍事参議官」
  7. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」36頁。
  8. ^ 『官報』第3232号「叙任及辞令」1937年10月9日。
  9. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

[編集]
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。