岩下守道
| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 |
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| 出身地 | 長野県東御市(旧・北佐久郡北御牧村) |
| 生年月日 | 1931年12月9日 |
| 没年月日 | 2015年1月18日(83歳没) |
| 身長 体重 |
176 cm 73 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 左投左打 |
| ポジション | 外野手、内野手、投手 |
| プロ入り | 1950年 |
| 初出場 | 1954年 |
| 最終出場 | 1962年8月13日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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岩下 守道(いわした もりみち、1931年12月9日 - 2015年1月18日)は、長野県北佐久郡北御牧村(現役当時、現・同県東御市)出身で、読売ジャイアンツや国鉄スワローズなどに在籍したプロ野球選手である。
来歴・人物[編集]
小県農業高校では投手で、球速は速かったが制球に難があり、それを補うためにコーチをする者もいない中でカーブの投げ方を自分で考案したという[1]。1949年夏に読売ジャイアンツ(巨人)が初めて選手公募を行った際、友人が面白がって岩下の名で応募したのがきっかけで入団テストを受け、応募者1300名の中でトップ合格する[2]。
1950年夏に宇野光雄二軍監督の勧めで一塁手へ転向[3]、さらに郷里の先輩で大洋の監督であった中島治康に野手転向の報告を行った際に勧められて、左打者になる[4]。1954年には二軍の新日本リーグでは打点王、打率2位となりで最高殊勲選手のタイトルを獲得し[5]、7試合ながら一軍公式戦に初出場する。1955年から1958年にかけては正一塁手・川上哲治の控えとして、主に試合後半の守備固めを中心に[6]一塁手として毎年30~40試合に出場した。この間の1957年のオフには、大ベテランの川上が常時出場できない場合は中堅手の与那嶺要を一塁手にコンバートさせるとのコメントに驚き、水原茂監督にトレードの直訴も行っている[7]。
1958年限りで川上哲治が引退し、レギュラー獲りのチャンスが訪れたが、1959年に入れ替わりに早稲田実業高校から入団した王貞治が一塁手にコンバートされたこともあって[8]、宇野が監督を務めていた国鉄スワローズへ移籍。国鉄では一塁手に飯田徳治がいたが、宇野は常時出場させれば活躍できると踏んで、岩下を二番・左翼手としてレギュラーポジションに抜擢[9]。この年岩下は123試合に出場して、打率.280とリーグ打撃成績7位に入り、25盗塁も記録した。翌1960年は6番打者として111試合に出場するが、頭部や膝のケガもあって[10]打率.244と成績を落として自由契約となり[11]、最下位に転落して監督を辞任した宇野とともに国鉄を退団する。貴重な左打者であり、驚きの声もあったが、シーズン中にゴルフ場に通っていたことが当時の野球中継で話されたことが遠因の一つでもある。
1961年より、かつて巨人で同時期にプレーした千葉茂が監督を務める近鉄バファローに移り、控えの一塁手・外野手として守備固めや代打で82試合に出場する。翌1962年に監督が別当薫に替わると出場機会が激減し、同年オフに現役引退。
引退後は西武百貨店に勤務したのち[12]、アパレル関連業のイワシタ服飾を創業し、その代表取締役社長も務めた[13]。
逸話[編集]
後年、巨人の後輩で王貞治の控え一塁手である山本功児に、やはり川上哲治の控えであった自分自身の姿を重ね、気にかけていたという[15]。
詳細情報[編集]
年度別打撃成績[編集]
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1954 | 巨人 | 7 | 7 | 7 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | 2 | 0 | .286 | .286 | .286 | .571 |
| 1955 | 54 | 71 | 68 | 10 | 14 | 1 | 0 | 0 | 15 | 3 | 6 | 1 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 13 | 0 | .206 | .229 | .221 | .449 | |
| 1956 | 61 | 36 | 33 | 13 | 8 | 2 | 1 | 0 | 12 | 2 | 2 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 7 | 1 | .242 | .286 | .364 | .649 | |
| 1957 | 67 | 29 | 27 | 4 | 6 | 0 | 0 | 0 | 6 | 1 | 5 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 2 | 1 | .222 | .250 | .222 | .472 | |
| 1958 | 39 | 36 | 34 | 4 | 8 | 1 | 1 | 0 | 11 | 4 | 4 | 3 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 7 | 0 | .235 | .278 | .324 | .601 | |
| 1959 | 国鉄 | 123 | 459 | 429 | 44 | 120 | 23 | 5 | 2 | 159 | 38 | 25 | 11 | 6 | 3 | 20 | 0 | 1 | 64 | 4 | .280 | .313 | .371 | .684 |
| 1960 | 111 | 366 | 336 | 27 | 82 | 10 | 4 | 7 | 121 | 31 | 10 | 4 | 6 | 1 | 20 | 1 | 3 | 58 | 10 | .244 | .292 | .360 | .653 | |
| 1961 | 近鉄 | 82 | 200 | 185 | 16 | 37 | 4 | 3 | 0 | 47 | 13 | 2 | 4 | 4 | 0 | 10 | 0 | 1 | 43 | 3 | .200 | .245 | .254 | .499 |
| 1962 | 5 | 5 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
| 通算:9年 | 549 | 1209 | 1124 | 118 | 277 | 41 | 14 | 9 | 373 | 94 | 55 | 24 | 18 | 5 | 57 | 1 | 5 | 200 | 19 | .246 | .286 | .332 | .618 | |
背番号[編集]
- 41 (1950年 - 1954年)
- 15 (1955年 - 1958年)
- 10 (1959年 - 1960年)
- 5 (1961年 - 1962年)
脚注[編集]
- ^ 『巨人軍 陰のベストナイン』86頁
- ^ 『背番号の消えた人生』176頁
- ^ 『巨人軍 陰のベストナイン』87頁
- ^ 『背番号の消えた人生』176頁
- ^ 『巨人軍 陰のベストナイン』88頁
- ^ 『巨人軍 陰のベストナイン』88頁
- ^ 『巨人軍 陰のベストナイン』93頁
- ^ 『背番号の消えた人生』184頁
- ^ 『巨人軍 陰のベストナイン』95頁
- ^ 『巨人軍 陰のベストナイン』96頁
- ^ 『日本プロ野球トレード大鑑』88頁
- ^ 『日本プロ野球トレード大鑑』97頁
- ^ 『プロ野球データ事典』59頁
- ^ 元巨人内野手の岩下守道さん死去 83歳 日刊スポーツ 2015年1月21日閲覧
- ^ 『巨人軍 陰のベストナイン』98頁
参考文献[編集]
- 上前淳一郎『巨人軍 陰のベストナイン』角川文庫、1982年
- 近藤唯之『背番号の消えた人生』新潮文庫、1985年
- 『日本プロ野球トレード大鑑』ベースボールマガジン社、2001年
- 坂本邦夫『プロ野球データ事典』PHP研究所、2001年