岡櫟仙院

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岡 櫟仙院(おか れきせんいん、文化12年(1815年) - 明治26年(1893年)10月)は、江戸時代末期の幕府医官。明治初期の宮中侍医。名は鳳、通称は良允。号は桐蔭徳川家定晩年の主治医。

人物[編集]

岡氏は代々幕府に仕えた医家で、祖父にあたる節斎も「櫟仙院」を名乗っている。

幕府医師・小川氏に生まれ、同僚である岡氏の養子となる。天保6年(1835年)、西の丸奥医師となり法眼に叙任。嘉永元年(1848年)、家督を継ぐ。安政4年(1857年)、法印となり櫟仙院と号す。翌安政5年(1858年)7月、将軍家定の脚気の悪化による急変の責任を問われ、奥医師解任、隠居、謹慎。奥詰医師の職にあった子息・良節も連座し、奥詰医師解任、小普請入り、家禄(世襲禄)も100俵を削られる。同じく奥医師であった実兄・小川汶庵も翌月には寄合医師に遷された。万延元年(1860年)9月、謹慎は解除される。

明治に入り浅田宗伯今村亮らとともに宮中侍医を勤め、嘉仁親王(のちの大正天皇)らの治療にあたったが、明治17年(1884年)6月に退任。名前の類似から混乱が見られるが、明治天皇の侍医・岡玄卿とは別人である。

明治26年(1893年)に没したが、あとを継いだ孫の岡麓(本名・三郎)はアララギ派の著名な歌人である。なお岡氏累代の墓所は駒込の高林寺である。

エピソード[編集]

  • オランダ船スンビン号(観光丸)試乗問題で栗本鋤雲を陥れたとの説がある。
  • 徳川斉昭一橋派の指図で、将軍徳川家定に毒をもったという嫌疑をかけられたことがある。
  • 若き日の浅田宗伯の訪問を受けた際、門前払いにしたが、後年宗伯に推薦されて宮中侍医になったという。