岡山大空襲

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岡山空襲
Okayama after the 1945 air raid.jpg
空襲後の岡山市街
岡山市北区内山下付近にあった岡山市公会堂(現:岡山県庁)から公会堂筋(県庁通り)を西望。
戦争第二次世界大戦 日本本土空襲
年月日1945年6月29日
場所岡山県岡山市
結果:-
交戦勢力
日本軍 アメリカ軍
指導者・指揮官
岡山監視隊本部 -
戦力
- ボーイングB-29、140機
損害
死者1737人
家屋12693戸
事故死11人
空襲の爆撃点となった地点には現在、NTTクレド岡山ビルが建てられている。

岡山空襲(おかやまくうしゅう)は、第二次世界大戦中の1945年昭和20年)6月29日午前2時43分から午前4時7分にかけてアメリカ軍により行われた岡山県岡山市に対する空襲のことである。計画段階では戦略爆撃だったが、ほとんど無差別爆撃として実行された(後述)。この空襲ではアメリカ軍爆撃機ボーイングB-29およそ140機[1]が用いられ、空襲警報が出されず全くの不意打ちであったため死者が1737人にも及んだ。

6月29日には岡山市・佐世保市のほか宮崎県延岡市福岡県門司市(現:北九州市門司区)が空襲を受け、夜には長崎県佐世保市が空襲を受けた(佐世保大空襲)。

空襲の経緯[編集]

空襲に至るまで[編集]

第二次世界大戦中のアメリカ軍1944年昭和19年)から市街地を対象として日本全土に大規模な空襲を行った。当時の岡山市は人口約16万人の中小都市であり、北郊の津島地区には陸軍の兵舎、兵器廠が存在していた。また、山陽本線を始めとした鉄道網が放射状に整備され、物資輸送上の拠点ともなっていた。こうしたことから、岡山市はアメリカ軍によって全国180の空襲対象の都市のうち、31番目にリストアップされた[2][3]

アメリカ軍の『目標情報票(Target Information Sheet)』には、岡山市を空襲することの意義について次のように述べられている。

A raid on Okayama should serve as an additional notice to the Japanese people that they will not go unnoticed or unharmed, even in the smaller urban industrial areas, if their city is at all important in the prosecution of the war. If the future looks grey to the people of other small cities, this might add the tint which makes it black.

(岡山市への空襲は、たとえより小さい都市でも、その都市が戦争遂行上少しでも重要な働きを果たすものならば、見逃されるとか無傷でいることはできないという、更なる警告となるべきものであらねばならない。もしもほかの小都市の住民が、自分たちの未来は灰色だと思っているのなら、この空襲はそれを真っ黒にするであろう。)

—日笠俊男 『B-29墜落 甲浦村1945年6月29日』 吉備人出版 2000年

アメリカ軍は岡山市の重要性として、陸軍兵舎・兵器廠(現:岡山大学津島キャンパス、岡山県総合グラウンド)、岡山駅と操車場、市の南西約25kmにあった三菱航空機工場(現:倉敷市水島)など、15か所を挙げていた。

しかしながら、アメリカ軍はこれらの軍事的な拠点よりもその下請けとなっている多数の小規模な工場と労働者、すなわち一般市民を攻撃対象とした。実際、アメリカ軍は15の重要拠点のうち、焼夷弾による攻撃対象地域に岡山駅と操車場、煙草工場と製粉所、岡山城とバラック(中学校校舎)の3か所のみを設定し[4]攻撃の中心目標(MPI)を市街地の中心部、国道53号県庁通りの交点(現:NTTクレド岡山ビル周辺)に決定した。周辺には当時の岡山市役所などが存在しており、最も効果的な攻撃が可能な地点であった。

1945年昭和20年)6月に入ると戦局は一層激化し、3月東京大空襲を始めとした大都市への攻撃から中小都市への攻撃へと対象が広がることとなった。そして、空襲7日前の6月22日には航空機の工場が存在していた水島地区がアメリカ軍による空襲を受けた(水島空襲)。

空襲当日[編集]

空爆を行ったB-29爆撃機。

6月28日夜、マリアナテニアン島の基地からアメリカ軍のB-29爆撃機141機が岡山へ向けて発進した。B-29の一団は途中、3機がトラブルに見舞われ、テニアン島へ引き返したものの残りは紀伊水道から淡路島の南の沼島小豆島南端、犬島の上空を通過し、旭川河口から岡山へと侵入した。そして翌29日午前2時43分、138機[5]のB-29による岡山市への爆撃が開始された。B-29が西に飛行しているという情報が岡山を監督する岡山監視隊本部に入ったのは、空襲の3分前の午前2時40分であった。しかしながらその情報は間に合わず、空襲警報が発令されないまま空襲が始まり、市内はほぼ壊滅状態となった。空襲には照明弾と焼夷弾が使用された。焼夷弾は爆風による破壊効果をもつ大型の油脂焼夷弾(AN-M47-A2)と殺傷能力を高めるために猛毒の黄燐が混入された小型の集束焼夷弾(AN-E48、集束弾からAN-M74焼夷弾38本が散開)の2種類が約890t(約95000発)投下され、市街地は一面火の海となり、逃げ場を失った1700人を超える岡山市民が犠牲となった。なお、この岡山空襲で世界的外科医の三宅速も犠牲となっている。

空襲後から敗戦まで[編集]

6月29日の空襲によって多数の市民が犠牲となり、市街地の73%が焼け野原と化し国宝(現在の重要文化財に相当)に指定されていた岡山城の天守閣や蓮昌寺の伽藍を始めとした中世から近世に掛けての文化財も失われた。一方で、北郊の津島にあった陸軍の拠点はほとんど無傷で残った。

7月9日には岡山県が「教育非常措置」を発表し学童の縁故疎開、集団疎開を行う方針を固めた。一部の学校で集団疎開が開始されたものの、文部省によって岡山県の集団疎開が不許可となったため、同月末には集団疎開の方針を改め、分散教育を行うことに変更した。

一方のアメリカ軍は7月上旬、岡山市を上空から偵察し岡山市の破壊面積率を63%とする報告を行った。これは、当初アメリカ軍が1回の空襲によって破壊を計画していた面積の119%にあたるものだった[2]。6月29日以降、アメリカ軍によって大規模な空襲は行われなかったものの、7月24日には四国沖に侵入した空母「シャングリラ」の空母艦載機12機による機関銃掃射によって岡山市をはじめとした県南部の操車場や運行中の列車が攻撃を受け、乗り合わせた市民ら44人が犠牲になった[6]。この空母からの艦載機による空襲は長らく目的が不明とされていたが、鳥取県境港市に所在した日本軍の航空基地攻撃のために出撃し、帰艦途中に攻撃したものであることが明らかになった[7]

その後、8月6日には広島県広島市に、9日には長崎県の長崎市原子爆弾が投下され15日に敗戦を迎えた。

岡山市の被害[編集]

  • 罹災面積:7.69km²(市街地の73%)
  • 罹災戸数:12,693戸 
  • 罹災者数:約12万人
    • 死者数:1,737人[8]
    • 負傷者数:6,026人

文化財の被害[編集]

主な焼失地域[編集]

1930年頃の岡山市の地図(クリックして拡大)

岡山空襲で焼失した主な地域を現在の町名、当時所在し被害を受けた建造物、その場所に現在所在している建造物について記す。

現:岡山市北区[編集]

現:岡山市中区[編集]

甲浦村におけるアメリカ軍機の墜落[編集]

岡山市への攻撃のためにテニアン島から出撃し、岡山市付近に到達した139機のB-29のうち1機が何らかのトラブルを起こし、児島半島児島郡甲浦村宮浦(現:岡山市南区宮浦)の山中に墜落し、搭乗していたアメリカ軍兵士11人が死亡した[9]。墜落現場には現在でも兵士を弔うための十字架の墓標が建てられている。

参考文献・脚注[編集]

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  1. ^ 日笠俊男 『B-29墜落 甲浦村1945年6月29日』 吉備人出版 2000年 ISBN 4-906577-55-5
  2. ^ a b 日笠俊男 『米軍資料で語る岡山大空襲 少年の空襲史科学』 吉備人出版 2005年 ISBN 4-86069-100-8
  3. ^ 岡山県内では他に津山市が127番、玉野市が142番、倉敷市が159番にリストアップされた。
  4. ^ 鉄道施設や工場などを焼夷弾の攻撃では破壊することは困難であった。木造の住宅や文化施設である岡山城、中学校などを恣意的に狙ったとも受け取れる。
  5. ^ 日笠、2000による。B-29の飛来機数は諸説あり、当時の日本陸軍中部軍管区発表のデータに基づく『岡山市史』では約70機とされているが明らかに過少な数値である。本文の数値はアメリカ軍の攻撃記録に基づくものである。
  6. ^ 『岡山市史』
  7. ^ 岡山県南艦載機空襲 本来目標は境港市(山陽新聞 2009年4月18日)
  8. ^ 『岡山市史』より。死者数は2,000人を超えるとする文献も存在する。
  9. ^ 日笠、2000による。B-29の墜落原因を日本側の撃墜とする文献も存在する。しかし、敗戦直後にアメリカ軍によって行われた現場調査の記録等を参照すると、機体のトラブルによる墜落であると判断される。また、アメリカ軍兵の死者数を8人、もしくは15人とする文献も存在しているが、これらは地元住民らの伝承に基づいて書かれたものであり、アメリカ軍資料により11人であると確定できる。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]