山野哲也
山野哲也 | |
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基本情報 | |
国籍 |
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生年月日 | 1965年10月2日(54歳) |
出身地 | 東京都 |
過去参加シリーズ | |
1999-2004 2005-2013 |
全日本GT選手権 SUPER GT |
選手権タイトル | |
2004 2005,2006 |
全日本GT選手権 SUPER GT |
山野 哲也(やまの てつや、1965年10月2日 - )は、日本のレーシングドライバー。東京都出身。茨城県守谷市在住。上智大学卒業。弟の山野直也もプロドライバー。
来歴[編集]
アメリカ在住中の16歳から自動車の運転を始め、大学卒業後、本田技研工業に入社。 本田技研工業在籍時には、ツインリンクもてぎの立ち上げに携わる。
1984年にジムカーナを始める。1985年にAS型CR-Xに乗換え、関東ミドル戦全戦全勝の成績を残す。1989年にEF8型CR-Xに変更、1992年には初の全日本チャンピオンを獲得、その後17度のチャンピオンに輝き「ジムカーナキング」と呼ばれる。2007年からは長年乗り続けていたホンダ車から離れ、ロータス・エキシージで参戦した。
2012年には同時に参戦しているSUPER GTと同様にスバル・BRZでの参戦を表明し、デビューとなった第2戦の広島TS-タカタサーキット戦でBRZ初優勝を飾った。
ジムカーナと並行して、1992年にホンダ・シティにてN1耐久にレースデビュー。その後シビックレースなどに参戦した後、1999年全日本GT選手権に参戦開始。参戦初年度よりチャンピオン争いの上位に加わる活躍を見せる。2004年にはGT300クラスにおいてM-TECから参戦し、ホンダ・NSXで自身初のチャンピオンを獲得。続く2005年は新たにSUPER GTと改称されたシーズンとなったが、そこで異なるチーム(チームレクリス)とマシン(トヨタ・MR-S)で、2年連続チャンピオンを獲得した(同一ドライバーによる異車種・異チームでのチャンピオンは初)。
2006年のSUPER GTにはRE雨宮からマツダ・RX-7で参戦。首位のプリヴェチューリッヒ・紫電と5P差で最終戦富士を迎え、レースでは自らのドライビングミスで序盤にスピンを喫してしまうが、ピットワークとパートナー井入宏之の踏ん張りで決勝を6位で迎えた。ポイント争いをしていた紫電がポイント圏外でレースを終えたため、同ポイントながら2位の入賞回数が紫電よりも多かったことから、3年連続チャンピオンを獲得した(スーパーGTにおいて、得点差ゼロでのチャンピオン獲得はこれが史上初)。
2007年よりクスコレーシングにて4WD仕様(2006年より4WDの参戦が解禁された)のスバル・インプレッサで参戦。2008年第4戦セパンで佐々木孝太とともに優勝を飾った(チームとしては1998年第5戦以来、4WD及び4ドア車としても初)他、第2戦岡山、最終戦富士でも3位表彰台に上がるなど特に濡れた路面ではその戦闘力の高さを示した。(また最終戦の予選ではポールポジションを獲得。なお第8戦から佐々木に代わりカルロ・ヴァン・ダムがスポット参戦)
2009年はクスコレーシングの休止により序盤は参戦しなかったが、第6戦よりR&D SPORTよりスバル・レガシィB4にて密山祥吾とともに参戦するが、トラブルにより出走できなかった。
2010年もR&D SPORTSにて参戦。パートナーは密山から再び佐々木になった。マシンもレガシィB4だが4WDからFRに変更、さらに第5戦よりトランスアクスル化されエンジンもWRC用ベースとなった。第6戦鈴鹿ではレガシィ初優勝を飾る。
2011年も同様の体制で参戦。レガシィのメインフレームの大改造を行ったのが功を奏し戦闘力がアップされたマシンで第5戦鈴鹿(夏の鈴鹿2連勝)と第7戦オートポリスで2勝を上げランキング4位につけた。3勝目を狙った最終戦もてぎではホイールナットが緩むトラブルもあって6位に終わった。
2012年もR&D SPORTSにて佐々木とともに参戦するが、マシンをレガシィB4からジムカーナと同様スバル・BRZで参戦する。
レース活動の一方で、ドライビングスクールのアドバイザーやタイヤメーカー、パーツメーカーの開発テストドライバーとしても活動している。また茨城県守谷市にある「オフィス コムドライブ」の代表取締役社長も務め、パーツ開発販売等の事業も行なっている。
戦歴[編集]
全日本ジムカーナ選手権[編集]
- 1992年 - EF8型CR-XでAIIクラスチャンピオン
- 1993年 - EF8型CR-X及びEG6型シビックでAIIクラスシリーズ2位
- 1994年 - EG6型シビックでAIIクラスチャンピオン
- 1995年 - EG6型シビックでAIIクラスチャンピオン。JAFカップのみDC2型インテグラで参戦し優勝。
- 1996年 - EK4型シビックでAIIクラスチャンピオン。1戦のみDC2型インテグラで参戦しAIIIクラス優勝。
- 1997年 - EK4型シビックでAIIクラスチャンピオン
- 1998年 - EK9型シビックでAIIクラスチャンピオン
- 1999年 - NA1型NSXでAIIIクラスチャンピオン
- 2000年 - AP1型S2000でAIIIクラスチャンピオン
- 2001年 - AP1型S2000でAIIIクラスチャンピオン。最終戦をDC5型インテグラで参戦。
- 2002年 - DC5型インテグラでAIIIクラスシリーズ6位
- 2003年 - AP1型S2000でN3クラスチャンピオン
- 2004年 - NA2型NSXでN3クラスチャンピオン
- 2005年 - NA2型NSXでN3クラスチャンピオン
- 2006年 - AP2型S2000でN3クラスシリーズ2位
- 2007年 - エキシージでN3クラスシリーズチャンピオン
- 2008年 - エキシージでN3クラスシリーズチャンピオン
- 2009年 - エキシージでN3クラスシリーズ2位
- 2010年 - エキシージでN3クラスシリーズ4位
- 2011年 - エキシージでN3クラスシリーズ2位
- 2012年 - ZC6型BRZでPN2クラスシリーズ2位
- 2013年 - ZC6型BRZでPN3クラスシリーズチャンピオン
- 2014年 - ZC6型BRZでPN3クラスシリーズ2位
- 2015年 - ZC6型BRZでPN3クラスシリーズチャンピオン
- 2016年 - エキシージでPN4クラスシリーズ5位
- 2017年 - 124スパイダーでPN2クラスシリーズチャンピオン
- 2018年 - 124スパイダーでPN2クラスシリーズチャンピオン
全日本GT選手権/SUPER GT[編集]
- 1999年 - RE雨宮マツモトキヨシRX-7で参戦 チームランキング4位、ドライバーズランキング5位
- 2000年 - RE雨宮マツモトキヨシRX-7で参戦 チームランキング4位、ドライバーズランキング5位
- 2001年 - RE雨宮マツモトキヨシRX-7で参戦 チームランキング3位、ドライバーズランキング2位
- 2002年 - ユニシアジェクスシルビアで参戦 チームランキング4位、ドライバーズランキング3位
- 2003年 - AMPREX BMW M3GT, CASTLEIDEAL RX-7参戦
- 2004年 - M-TEC NSXで参戦 GT300クラスチャンピオン
- 2005年 - TEAM RECKLESS MR-Sで参戦 2年連続GT300クラスチャンピオン
- 2006年 - 雨宮アスパラドリンク RX-7で参戦 3年連続GT300クラスチャンピオン
- 2007年 - クスコDUNLOP スバル・インプレッサで参戦 チームランキング18位ドライバーズランキング22位
- 2008年 - クスコDUNLOP スバル・インプレッサで参戦 チームランキング7位 ドライバーズランキング6位 (この年の第4戦マレーシアセパンサーキットでAWD車初優勝(GT300としてはAWD車初優勝)に導いた)
- 2009年 - R&D SPORT レガシィB4で第6戦から参戦
エピソード[編集]
- ジムカーナ会場ではEF8型CR-Xで参戦していた当時、その車のカラーリングがリゲインに似ていた(車のカラーリングは黒地に黄色のロゴであったが)ことから、出走時に「勇気のしるし」が流れる。又ジムカーナの実況アナウンサーからは「24時間戦えるドライバー」と称されていた。
- スタート位置が変更された鈴鹿サーキットでの初レースでのポールポジション獲得者。
- ジムカーナキングの異名を持ち、GTでも前人未到の3連覇を達成しているが、自身のジムカーナのデビュー戦は転倒、レースのデビュー戦は予選落ちであった。
- 2007年全日本ジムカーナ選手権でのチャンピオン獲得は、史上初となる外国車両(ロータスエキシージ)であった。
- ツインリンクもてぎ開催のミジェットレーシング選手権の初代チャンピオンでもある。
外部リンク[編集]
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