伊予来目部小楯

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伊予来目部小楯(『前賢故実』より)

伊予来目部小楯(いよのくめべ の おたて)または山部小楯(やまべ の おたて)は、日本古代官吏豪族

経歴[編集]

日本書紀』・『古事記』・『播磨国風土記』の記述によると、以下の通りになる。

清寧天皇2年(481年)11月、小楯は播磨国司(針間国宰、はりまのくにのみこともち)として大嘗祭(だいじょうさい)の供奉料の新穀を徴収するため派遣された。『書紀』では赤石郡縮見屯倉(しじみ の みやけ)、『古事記』では志自牟(しじむ)、『風土記』では「志深(ししみ)の里」の、忍海部造細目(おしぬみべ の みやつこ ほそめ)の新室(にいむろ)の酒宴の席で、牛飼となって隠れていた市辺押磐皇子(いちのべ の おしは の みこ)の遺子、億計(おけ)・弘計(をけ)両王を発見し、民衆を動員して仮宮を建てさせた上で、朝廷に報告した。清寧天皇は驚き、さらに非常に喜んだという[1][2]485年、小楯はその功で山官(やまのつかさ)に任じられ、山部氏とを与えられた。そして「吉備臣」を副(そいつかい)として「山守辺」(やまもりべ)を部民とした、とある[3]

考証[編集]

父親の皇子が殺された際に、億計・弘計二王は最初に丹波国余社郡(よさぐん)から播磨国赤石郡に逃れているが、『播磨国風土記』によると、宍禾郡(しさわぐん)比治里(ひじのさと)は孝徳天皇の時代に揖保郡(いいぼぐん)を分けて宍禾郡を設置する際に「山部比治」(やまべ の ひじ)が里長になっており、彼の名に因んで名づけたものだという。同じ郡の安師里(あなしのさと)も、元々は「山守里」といい、山部三馬(やまべ の みうま)が里長であったと記載されている(「安師」と改名したのは、川の名前に因んだもので、川の名は安師比売という神の名によるものだという)。藤原宮跡・平城宮跡から出土される木簡からも

「宍粟評(しさわのこおり)小□□・山部赤皮□□」 「播磨国 宍粟郡柏□□(野里)・山部子人米五斗」

とあり、宍粟郡の山部の存在が分かる。

このほか、石山寺所蔵の天平6年(734年)11月書写の播磨国賀茂郡既多寺の知識経の中には、山直(やまのあたい)一族である「上麻呂」・「乙知女」・「恵徳」の名が記載されている。正倉院文書からも山直一族が 多加郡賀美(かみ)郷に住んでいたことが分かる。写経生「山部宿禰針間麻呂(播磨麻呂、はりままろ)」の名前も播磨国との関連性を物語っている。

山部氏は法隆寺ともつながりが深く、大和国平群郡一帯(現在の奈良県斑鳩町)に大勢力を築いていたらしい。『法隆寺伽藍縁起 并流記資財帳』によると、法隆寺は播磨国揖保郡に5ヶ所、印南郡(いなみぐん)と飾磨郡(しかまぐん)に16ヶ所の山林丘嶋を有し、一帯の海浜も領有している。推古天皇14年(606年)、聖徳太子は天皇への勝鬘経法華経購読の料として、水田50万代(100町)を揖保郡に賜ったという[4]

これらのことから、播磨国は山部、山部直、彼らを管掌する山部連と密接に関係があり、二王が発見されたのは偶然ではないと推定される。

伝承[編集]

愛媛県松山市高家八幡神社には、神八井耳命の子・健磐龍命の第3男子の健岩古命が伊予の賊を征伐し、伊予の岩古山に住み、久米部山部小楯の遠祖となったという伝説がある[5]

脚注[編集]

  1. ^ 『日本書紀』清寧天皇2年11月条、顕宗天皇即位前紀
  2. ^ 『古事記』清寧天皇条
  3. ^ 『日本書紀』顕宗天皇元年4月11日条
  4. ^ 『日本書紀』推古天皇14年7月条、是歳条
  5. ^ 愛媛神社庁HP「高家八幡神社[1]

参考文献[編集]

関連項目[編集]