山谷堀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
広重『名所江戸百景』より「真乳山山谷堀夜景」。画面奥から手前の隅田川に注ぎ込む水路が山谷堀。今戸橋(現・今戸橋交差点付近)の橋脚が見え、左右には当時の著名な船宿であった竹屋と有明楼の窓が灯っている。背後の森は待乳山聖天である。

山谷堀(さんやぼり)は、かつてあった東京の水路。正確な築年数は不明だが、江戸初期に荒川の氾濫を防ぐため[1]、箕輪(三ノ輪)から大川(隅田川)への出入口である今戸まで造られた。現在は埋め立てられ、日本堤から隅田川入口までの約700mが台東区立の「山谷堀公園」として整備されている。

江戸時代には、新吉原遊郭への水上路として、隅田川から遊郭入口の大門近くまで猪牙舟が遊客を乗せて行き来し、吉原通いを「山谷通い」とも言った。船での吉原行きは陸路よりも優雅で粋とされた。界隈には船宿や料理屋などが建ち並び、「堀」と言えば、山谷堀を指すくらいに有名な場所だったが、明治時代に遊興の場が吉原から新橋などの花街に移るにつれて次第に寂れ、昭和には肥料船の溜まり場と化し[2]永井荷風の記述によると、昭和初期にはすでに吉原は衰退しており、山谷堀も埋め立てが始まっていた[3]。戦後の売春防止法による吉原閉鎖後、1975年までにすべて埋め立てられた[4]

江戸の名所として[編集]

かつては「よろず吉原、山谷堀」と歌にも歌われ、江戸名所のひとつに挙げられる風情ある場所で、船の出入りが多くなる夏の夕方などは絵のように美しかったという[2]。河口岸には有明楼などの料亭があり、芸者遊びなどもできた。江戸三座があった猿若町(現在の浅草6丁目辺り)に近いため、山谷堀芸妓(堀の芸者)は「櫓下」とも呼ばれた[2]

水路と橋[編集]

水源は石神井用水(音無川)である。水流は根岸から三ノ輪を通って、隅田川まで続いていた。埋め立てられる前の山谷堀には、今戸橋・聖天橋・吉野橋・正法寺橋・山谷堀橋・紙洗橋・地方新橋・地方橋・日本堤橋の九つの橋があった。

紙洗橋付近には、浅草紙の生産所があり、原料である紙屑を紙舟に入れて山谷堀の流れにさらしておく2時間程度の間、職人たちは時間つぶしに吉原遊郭の軒先を見てまわった。見るだけで登楼しないことから、紙をさらしておく工程の「冷やかす」という言葉が、買う気のない客を表す言葉として使われるようになった[5]

ギャラリー[編集]

著名な住人[編集]

舞台となった作品[編集]

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]