山田高塚古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山田高塚古墳

墳丘全景
別名 高松古墳
所属 磯長谷古墳群
所在地 大阪府南河内郡太子町大字山田
位置 北緯34度30分42.83秒 東経135度38分58.44秒 / 北緯34.5118972度 東経135.6495667度 / 34.5118972; 135.6495667座標: 北緯34度30分42.83秒 東経135度38分58.44秒 / 北緯34.5118972度 東経135.6495667度 / 34.5118972; 135.6495667
形状 方墳(または長方形墳)
規模 東西59m×南北55m
高さ11m
埋葬施設 (推定)横穴式石室2基
被葬者宮内庁治定)第33代推古天皇竹田皇子
陵墓 宮内庁治定「磯長山田陵」・「竹田皇子墓」
地図
山田高塚 古墳の位置(大阪府内)
山田高塚 古墳
山田高塚
古墳
テンプレートを表示
推古天皇磯長山田陵・
竹田皇子墓 拝所

山田高塚古墳(やまだたかつかこふん、高松古墳<たかまつこふん>[1])は、大阪府南河内郡太子町山田にある古墳。形状は方墳(または長方形墳)。磯長谷古墳群を構成する古墳の1つ。

実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)」および「竹田皇子墓(たけだのみこのはか)」として第33代推古天皇竹田皇子敏達天皇皇子)の合葬陵墓に治定されている。

概要[編集]

大阪府南東部、二上山山麓の磯長谷において、金剛山地から伸びる台地状丘陵の西端部に築造された古墳である[1][2]江戸時代の修陵で大規模な改変が加えられているほか[1][3]、現在は宮内庁治定の天皇陵として同庁の管理下にあるが、これまでに宮内庁書陵部による調査等が実施されている[2]

墳丘は3段築成[3]。1段目は正方形、3段目は長方形であるが、1段目形状には後世の改変可能性が指摘される[3]。墳丘外表では貼石が認められるが、埴輪は無いとされる[3]。埋葬施設は明らかでないが、東西に長い墳丘の特徴から、横穴式石室2基が東西に並び、いずれも南方に開口したと推定される[2]。古書ではいずれかの石室内部における石棺2基の存在が記述されている[2][3]

被葬者は明らかでないが、現在は宮内庁により第33代推古天皇628年崩御)および子の竹田皇子(崩御年不詳)の合葬陵墓に治定されている[4]。磯長谷では、長方形墳または双方墳の形式として二子塚古墳(太子町山田)や葉室塚古墳(太子町葉室)が知られ、石室2基の点や墳丘比率の点で共通性が指摘される[5]。また磯長谷では推古天皇陵のほか敏達用明孝徳天皇陵と聖徳太子墓が伝わっており、これらは「梅鉢御陵」と総称される。

遺跡歴[編集]

構造[編集]

山田高塚古墳の航空写真
(1985年度)
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。

3段築成の墳丘のうち、1段目は東西59メートル・南北55メートルとほぼ正方形であるが、3段目は東西34メートル・南北25メートルと東西に長い長方形であり、かつ3段目は相当な急斜面をなす[3]。墳丘全体の高さは11メートルを測る[3]。特に1段目のプランは春日向山古墳(用明天皇陵)と同一になるため、江戸時代の修陵の際に春日向山古墳に則って改変されたと見られ、元は1段目も東西に長い長方形であった可能性が指摘される[3]

墳丘南側には前庭部状の平坦地があり、それを含めた陵域全体は東西75メートル・南北72メートルを測る[3]。また墳丘東側・前面には空堀(幅8-9メートル)が認められるが、1979年(昭和54年)の調査によればその堤は後世に水田上に造作されたものとされる[4]

被葬者[編集]

山田高塚古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第33代推古天皇および子の竹田皇子(たけだのみこ)の合葬陵墓に治定している[7][8][4][9]。推古天皇について、『日本書紀』では推古天皇36年(628年)3月[原 2]に崩御したとし、同年9月[原 3]に遺詔により「竹田皇子之陵」に葬ったとするが、所在地・陵名に関する記載は無い[4][1][3]。一方で『古事記』では、「御陵在大野岡上、後遷科長大陵也」として「大野岡上」から「科長大陵」への改葬の旨が見えるが、こちらには竹田皇子との合葬に関する記載は無い[4]。『延喜式諸陵寮[原 4]では、推古天皇陵は遠陵の「磯長山田陵」として記載され、河内国石川郡の所在で、兆域は東西2町・南北2町で陵戸1烟・守戸4烟を毎年あてるとする[4][1]。また『扶桑略記[原 1]によれば、康平3年(1060年)に「推古天皇山陵」で盗掘があったという[4]

その後、元禄の探陵の際には堺奉行が現陵の存在を報告している[4]。また古書では、横穴式石室(いずれの石室か不明)の内部には石棺2基があって、右が推古天皇棺で左が竹田皇子棺であると見える[2][5]。ただし前述のように本古墳には2基の石室の存在が推定されるため、性格を規定するには石棺2基の石室とは別の石室の内容も考慮するべき点が注意される[2]

山田高塚古墳から望む
二子塚古墳

なお、推古天皇・竹田皇子の真の合葬陵墓としては東方約200メートルの二子塚古墳に比定する説もあるほか[5]、改葬前の陵墓(大野岡上)については植山古墳奈良県橿原市)に比定する説がある(詳細は「植山古墳」参照)。

梅鉢御陵関係系図
石姫
太子西山古墳
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
29 欽明
 
 
 
蘇我氏
小姉君
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蘇我氏
堅塩媛
 
 
 
 天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
広姫
 
 
 
30 敏達天皇
太子西山古墳
 
 
 
33 推古天皇
山田高塚古墳
31 用明天皇
春日向山古墳
 
 
 
穴穂部間人皇女
叡福寺北古墳
32 崇峻天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
押坂彦人大兄皇子竹田皇子
山田高塚古墳
[膳氏]
膳郎女
叡福寺北古墳
 
聖徳太子
叡福寺北古墳
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
茅渟王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
36 孝徳天皇
山田上ノ山古墳
35 皇極天皇 /
37 斉明天皇
 
34 舒明天皇
 

現地情報[編集]

所在地

交通アクセス

周辺

脚注[編集]

原典

  1. ^ a b 『扶桑略記』康平3年(1060)6月2日条。
  2. ^ 『日本書紀』推古天皇36年(628年)3月癸丑(7日)条。
  3. ^ 『日本書紀』推古天皇36年(628年)9月壬辰(24日)条。
  4. ^ 『延喜式』巻21(治部省)諸陵寮条。

出典

  1. ^ a b c d e 高松古墳(平凡社) 1986.
  2. ^ a b c d e f g 書陵部紀要 第42号 1991.
  3. ^ a b c d e f g h i j 王陵の谷・磯長谷古墳群 1994, pp. 16–17.
  4. ^ a b c d e f g h i j 磯長山田陵(国史).
  5. ^ a b c 王陵の谷・磯長谷古墳群 1994, pp. 33–41.
  6. ^ "推古天皇陵を立ち入り調査/研究者ら石室材を確認"(四国新聞社、2012年2月23日記事)。
  7. ^ 天皇陵(宮内庁)。
  8. ^ 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)11-12コマ。
  9. ^ 『陵墓地形図集成 縮小版』 宮内庁書陵部陵墓課編、学生社、2014年、p. 407。

参考文献[編集]

  • 地方自治体発行
  • 宮内庁発行
    • 「推古天皇陵の墳丘調査」『書陵部紀要 第42号 (PDF)宮内庁書陵部、1991年。  - リンクは宮内庁「書陵部所蔵資料目録・画像公開システム」。
      • 再掲:宮内庁書陵部陵墓課編 編「推古天皇陵の墳丘調査」『書陵部紀要所収 陵墓関係論文集 3』宮内庁書陵部、1996年。ISBN 4311300344 
  • 事典類

関連項目[編集]

外部リンク[編集]