山田五郎 (ダンサー)

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山田 五郎(やまだ ごろう、1907年1月22日 - 1968年12月21日)は、東京出身の日本の舞踊家[1]

能楽を学んだ後、渡欧して西洋舞踊を学び、帰国後は創作舞踊の分野で活動した。

娘に舞踊家の山田奈々子[2]。息子に俳優・歌手の山田真二[2]

経歴[編集]

桜間金太郎(後の櫻間弓川)の下で金春流能楽を学ぶ[1]1924年築地小劇場岩村和雄からリトミックを学んだのを契機として、西洋の舞踏に関心を寄せるようになり[1]1926年菊池寛芥川龍之介久米正雄里見弴土方与志小山内薫らの支援を受けて洋行した[3][4]アメリカ合衆国では、早川雪洲三浦環と共演する機会をもった[4]バリ滞在中には、藤田嗣治の仲介により、オデオン座で上演された岡本綺堂の『修善寺物語』に出演した[1][4]

1928年に帰国して、山田五郎舞踊研究所を設立[5]。以降、能楽の主題に西洋舞踊の要素を盛り込んだ新作舞踊などを発表し[3][6]、「能ダンス」[4]、「モダン能」などと称された[7]

戦後は、高田せい子とともに高田せい子・山田五郎舞踊研究所を組織して、日比谷公会堂でファンタスチック・バレエと銘打った『湖底の夢』の公演を行ったのを皮切りに[8]、『石像と花と女』、『海のバラード』などを高田とともに振り付けた[1]

東宝プロデューサーの森岩雄とは遠縁にあたり、山田も準所属として東宝映画に出演することもあった[2]。息子の真二も山田の勧めで松竹から東宝へ移籍しており、娘の奈々子も東宝映画『モスラ』に出演している[2]

1959年には、ウィーンで開催された世界平和友好祭舞踊コンクールの審査員を務めた[5]

山田は、全日本舞踊協会(後の全日本芸術舞踊協会〜現代舞踊協会の前身)の理事長、副会長を歴任し、1968年紫綬褒章を受章した[1]

山田は、1968年に肝硬変で死去し、葬儀は全日本芸術舞踊協会葬として執り行われた[5]。墓所は冨士霊園

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 20世紀日本人名事典『山田五郎』 - コトバンク
  2. ^ a b c d 「インタビュー 舞踏家 山田奈々子(聞き手・友井健人)」『別冊映画秘宝 モスラ映画大全』洋泉社〈洋泉社MOOK〉、2011年8月11日、pp.42-43頁。ISBN 978-4-86248-761-2 
  3. ^ a b “新舞踊 能舞楽に欧米の舞踊を取入れて、山田君帰朝”. 朝日新聞・東京朝刊: p. 7. (1928年8月30日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  4. ^ a b c d “近く公演する 能ダンス 欧米で研究を積み帰った山田君”. 読売新聞・朝刊: p. 7. (1928年8月30日)  - ヨミダス歴史館にて閲覧
  5. ^ a b c “訃報 山田五郎氏”. 朝日新聞・東京朝刊: p. 7. (1968年12月22日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  6. ^ “話題と解説/音楽シーズン開く(3) 続々催される新作発表”. 朝日新聞・東京朝刊: p. 5. (1928年9月22日). "一寸色合いの變つたところでは新歸朝の山田五郎氏が能から脱化して多分に氏一流の創意を加へたものと氏が歐米舞踊見學中獲來つたものを提げて名乗りをあげようとしてゐるのと..."  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  7. ^ “モダン能楽の新作を山田氏発表”. 読売新聞・朝刊: p. 10. (1929年5月16日). "能樂を基調として之を極度にモダン化した舞踊家山田五郎氏はシヨパンの「幻想的即興曲」とチヤイコフスキーの「アンダンテカンタビレ」を舞踊化した新作...."  - ヨミダス歴史館にて閲覧
  8. ^ 牛山充 (1956年12月14日). “胸打つ高い格調 高田せい子・山田五郎公演 海のバラード”. 朝日新聞・東京夕刊: p. 2  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧