山田かまち

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

山田 かまち(やまだ かまち、1960年7月21日 - 1977年8月10日)は、17歳で夭折した人物。死後に遺作となった絵画が発見され、それらを収めた『悩みはイバラのようにふりそそぐ : 山田かまち詩画集』(1992年)がきっかけで世に広く知られるようになった。群馬県高崎市出身。

生涯[編集]

幼少より絵画の才能を発揮する。小学校3年生のとき、東京芸術大学出身の竹内俊雄(後に新島学園高校の美術科非常勤講師)がクラスの担任になり、冬休みの宿題で動物の絵(52枚)を1時間あまりで書き上げ、その作品は竹内によって保管され、貴重な作品として「高崎市山田かまち美術館」に残された。

中学3年生の頃からビートルズなどのロックに傾倒。同級生であり後にミュージシャンとして活躍する氷室京介松井恒松とバンドを組んだこともあった。

16歳の1年を浪人し、前橋市の英数学館[要出典]に通う(当時の群馬県では、高崎高校前橋高校といった難関県立高校を目指して中学浪人をする者がいた)。

1977年、群馬県立高崎高等学校に入学。友人数人と、学園祭で映画を作成し出演する。

同高校1年生の17歳の8月、自宅でエレキギターを練習している最中に感電死。このエレキギターは17歳の誕生日にプレゼントとして贈られたものであった。死因は感電事故[1]

「かまち」の名前の由来は、終戦直後に両親が読んだ歴史小説和島誠一著「日本歴史物語」の主人公の名前である。その小説は「鹿麻知(かまち)」という少年が、石器時代を舞台に活躍するというものであり、両親は「終戦直後であったので、この少年のように新しい時代を強く生きるように」という願いをこめた。また、「かまち」のひらがな表記の理由は、「かまち自身が自由に漢字をあてられるように」という意図がある。

死後[編集]

高崎市山田かまち美術館
  • 死後、保管されていた詩を書き付けたノートやデッサン水彩画を、母親や恩師などが中心となり詩集や画集として出版、一躍注目を集める。
    • 4回忌(81年)と13回忌(89年)に知人らに向けた小さな展覧会が開かれた。その頃はまだ無名の少年だったが、13回忌の展覧会で彼の作品に衝撃を受けた広瀬毅朗画廊によって、1992年に高崎市片岡町に「山田かまち水彩デッサン美術館」が設立され、小さな山田かまちブームが起きていた。その後、同年12月に『悩みはイバラのようにふりそそぐ : 山田かまち詩画集』が刊行され、全国紙にも広告が載り、これをきっかけに広く世に知られるようになった。テレビでもかまち特集が度々放送された。
  • 中学校認定の国語教科書高校認定の現代社会美術英語教科書に彼の詩や絵画が掲載されている。
  • 2004年、自伝映画「かまち」が公開、監督を望月六郎、主演は谷内伸也が努めた。
  • 2014年、山田かまち水彩デッサン美術館が高崎市の市営施設となり、「高崎市山田かまち美術館」に改称。

人気[編集]

かまち人気について精神科医のなだいなだは、「暗闇の中に浮かぶ小舟のように孤独な一七歳の心に、かまちの作品はメッセージを投げかけるのだ。強烈な閃光を」と評した[2]

著作[編集]

関連書籍[編集]

  • 板垣英憲著『山田かまち伝説』(データハウス、1994年)ISBN 4887182023
  • 文藝春秋編『ありがとう、かまち : 山田かまちへの熱いメッセージ』(文藝春秋、1996年)ISBN 4163515305
  • 山田千鶴子著『かまちの海』(文藝春秋、2001年)ISBN 4163574301
  • アートブック本の森編著『夭折の系譜 : 20人のアーチストの死から考える』(アートブック本の森、2001年)ISBN 4876937737

かまちを特集したテレビ番組[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 『悩みはイバラのようにふりそそぐ : 山田かまち詩画集』(筑摩書房)「はじまり」より。
  2. ^ 『悩みはイバラのようにふりそそぐ』のまえがきより。

外部リンク[編集]