山浦貫一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

山浦 貫一(やまうら かんいち、1893年明治26年)3月20日 - 1967年昭和42年)9月26日)は新聞記者政治評論家

来歴・人物[編集]

長野県小県郡川辺村(上田市)出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)から早稲田大学政治経済学部卒業。1919年時事新報記者となり、1924年東京日日新聞に転じ、1927年新愛知東京支社、ついで国民新聞読売新聞各論説委員を務め、1948年読売新聞を定年退社。1946年には憲法普及会理事を務めた。

その後、東京新聞編集顧問、NHK中央番組審議委員、中央選挙管理委員会委員などを務めた。晩年は東京新聞のコラム「放射線」に池上五六のペンネームで反共評論を書いた。森恪鳩山一郎らと親交があった。

東京日日新聞時代、光文事件で時の政治部長が責任を取ろうとしなかったことに対して、岩淵辰雄らと連れ立って部長排斥運動を展開した。

1967年9月26日急性肺炎により死去。享年74歳[1]9月27日、政府の持ち回り閣議において、正四位勲二等瑞宝章が贈られることが決定される[2]9月29日青山葬儀所において葬儀と告別式が行われる。葬儀委員長は十河信二[3]

著書[編集]

単著[編集]

  • 『政局を繞る人々』四海書房、1926年12月。NDLJP:1017805
  • 『政治家よ何処へ行く』日本書院出版部、1929年1月。
  • 『議会政治と政党』誠文堂、1930年8月。
  • 『非常時局と人物』信正社、1937年3月。NDLJP:1446521
  • 『失はれた政権』今日の問題社、1937年4月。NDLJP:1096361
  • 『近衛時代の人物』高山書院、1940年10月。
  • 『森恪は生きて居る』高山書院、1941年5月。NDLJP:1057857 NDLJP:1086531
  • 『森恪 上巻』高山書院、1943年12月。NDLJP:1908689
    • 『森恪 下巻』高山書院、1943年12月。
  • 『新憲法の解説』内閣、1946年11月。
  • 『国会・内閣・政党』開隆堂〈社会科叢書 3〉、1948年11月。NDLJP:1168227
  • 『日本の政治家』弘文堂〈アテネ文庫 第88〉、1949年12月。
  • 『日本の顔』小説朝日社、1952年10月。

編集[編集]

  • 犬養毅『景気か不景気か 犬養か・浜口か』山浦貫一編、誠文堂、1930年2月。
  • 『森恪』山浦貫一編、森恪伝記編纂会、1940年12月。
    • 『森恪 東亜新体制の先駆』山浦貫一編、森恪伝記編纂会、1941年7月、普及版。
    • 森恪』山浦貫一編、原書房〈明治百年史叢書 294〉、1982年10月。ISBN 9784562013104

共編著[編集]

出典[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ 「山浦貫一氏(政治評論家)死去」『読売新聞』、1967年9月26日、11面。
  2. ^ 「故山浦貫一氏に叙勲」『読売新聞』、1967年9月28日、2面。
  3. ^ 「故山浦貫一氏の葬儀」『読売新聞』、1967年9月27日、15面。

参考文献[編集]

  • 『昭和物故人名録』日外アソシエーツ 1983年

外部リンク[編集]