山本久美 (実業家)

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山本 久美(やまもと くみ、旧姓:塩澤[1]1967年6月6日[2] - )は日本実業家、元小学校教諭[2]居酒屋チェーン「世界の山ちゃん」などを展開するエスワイフード代表取締役[2]2016年8月に急死した夫の山本重雄に代わり、同社の経営トップに就任した[2][3]

来歴[編集]

静岡県静岡市で生まれ[2][1]愛知県名古屋市で育つ[2]。小学6年でバスケットボールをはじめ、名古屋市立守山中学校に入学後はバレーボール部に入るつもりでいた[1]が、入学前の春休み、同校に通っていた姉の学年を担当していた井上眞一が姉に、「妹がバスケをやっているんなら、練習に連れてこい」と指示し、久美はとりあえず同部の練習に参加した[1]。いきなり練習着一式をプレゼントされるなど入部ありきの厚遇を受けた気がした久美は、井上からの誘いを半ば胡散臭く思っていたが[注 1]、井上は、有望な選手にあたりまえの配慮をしたに過ぎず、久美について「彼女は小柄でしたが、バスケのスキルは当時からありました」と評した[1][注 2]

中学では他にも陸上競技に取り組むなどスポーツ万能な面を発揮しながら[2]、井上の指導のもとバスケットボール部の練習に打ち込んだ[1]。井上の練習では切磋琢磨ではあっても「1年生はボール拾いや声出しばかり」のような封建的指導がなく、久美がのちに経営者となってからはビジネスにおいても、「新人は下積みばかり」ではない人材育成の強化に繋がったという[1]。こうして久美が入部した1980年、井上率いる同部は、女子の全国中学校バスケットボール大会を制した[1]

久美が2年になると、あるとき3年生との校内の練習試合で2年生のチームが勝ってしまい、それに憤慨した井上はキャプテンを久美に交代させ背番号『4』を背負わせた[1]。同部は久美が在学中、女子の全国中学校バスケットボール大会で3連覇し、その後も制覇は続いた[1]。ただ、久美の身長が他の選手と比べると155センチと低く、高校ではレギュラーにすらなれないのを懸念した井上は、バスケットボールだけにとどまらない広い視野での高校進学を勧めた[1][注 3]。バスケットボールとは半歩距離を置くことになった名古屋市立向陽高等学校での高校生活を経て、薫陶を受けた井上の影響もあって教師になるのを目指した久美は愛知教育大学へ進んだ[1]

山本重雄が開発した2度揚げでカリッと仕上げる手羽先唐揚げ[4]

大学1年となったある日、一足先に社会人になっていて、バスケットボール部のマネージャーだった友人から「メッチャ面白くて美味しい店がある。連れていってあげる」と言われ、向かった先が名古屋市中区の繁華街、住吉に構える居酒屋「山ちゃん」であった[1]。ビルの奥まったところにある「ちょっと怪しげな店」に入ると、店主が開発したピリ辛の手羽先唐揚げや当時は珍しい生のままサラダで出てきたホウレンソウを味わった[1]。店主はのちに久美の夫となる山本重雄であったが、この時点ではまだ「世界の山ちゃん」が頭角を現す時期を記憶するにとどまり、二人は互いの道を目指しながらすれ違った[1]

大学卒業後、教師となった久美は名古屋市立猪高小学校に赴任した[1]。中学の教師になって全国大会レベルのバスケットボール部の指導をしたい、との思惑が外れた配属であったことから、バスケットボールのことは封印していた[1]が、どこからか噂が広まり、その年の夏には同校バスケットボール部の主任顧問の補助役を引き受ける運びになるが、主任顧問の教師が病気による休職を経て他校へ異動となったため、1年後には代わりを任されることになった[1]。その傍ら小学生でもクラブチームであれば全国大会のあるミニバスケットボールで地元「昭和クラブ」の指導に携わる[1][注 4]。当時については他方で、zakzakによれば久美は同クラブの「コーチ」を務めたとされている[2]

久美は恩師井上と自分をだぶらせては熱血指導にあたり、陰で「デビル塩澤」などと言っては恐れていたという児童たちも期待に応えて練習に励み、久美を監督とするミニバスケットボールの男子チームは3度の全国制覇に輝いた[1][8]

クラブチームの指導に携わるようになって5年目、全国大会の戦力均衡を図るため、1つのチームには4つの小学校の児童しか登録できないルール(4校制)が制定されることになり、選りすぐりメンバーで成り立っていたチームの編成を直撃した[1]。久美は30歳になっていた[1]。やがて「昭和クラブ」からは手を引いた[1]

ほどなくして知人から「居酒屋の社長さん」「面白い人」として交際を勧められた相手が、18歳のときに「食べたことがない味」のピリ辛の手羽先唐揚げや生のホウレンソウを味わった思い出のある居酒屋の店主、山本重雄であった[1]。「世界の山ちゃん」は当時10店舗を展開するほどの有名店に成長していた[1]。二人の正式な交際が始まると根は物静かだが迅速果断、学校の同僚たちには見られない重雄の一本気なところに久美は惹かれていった[1]2000年3月をもって猪高小学校を退職、重雄からの助言もあり、同校で続けていたバスケットボール部の指導もやめた[1]。出会ってから半年ほど経った同年5月に32歳で重雄と結婚[1][9]、同時にエスワイフード取締役に就任した[2][9]。店内掲示用かわら版通信の制作を手掛ける以外には同社の経営には一切関わらず[1][9][10]、専業主婦に専念し、2001年に33歳で長女、36歳で次女、41歳で長男を出産した[1][9]

2016年8月21日、仕事に出るために5時ごろ起きてリビングに向かった[3]重雄が、普段ならもう家を出ている時間を過ぎ、6時ごろになっても出かける気配がないのに気付き[1]、様子を見に行くとぐったりしていた[1]。重雄は搬送先の病院で大動脈解離により59歳で死去した[1]。予兆らしきことはまったくなかったという[3]。自分に何かあった時の代役・後任の話も誰にもしていなかった[10]。重雄が亡くなったことで久美がすぐに思ったのは、これからの家庭のことだった[1]。子どもたちはまだ中学3年と中学1年、小学2年と子育ての真っただ中であった[11]

一方で、病院に駆け付けた取引先の様子を察した管理職からの要望もあり、エスワイフードの未来も自分自身にかかっているのを意識させられる[1]。同社が8月末に決算日を設定している都合上[3]、重雄の死去1週間後には代表取締役となるのを決め、同月中に就任を果たした[1]。取引先や経営コンサルタントからは素人に経営は務まらないだろうからなどと言われ、盛んに会社の身売り話を持ちかけられるが、かえって自分の無力に憤るようではいけないと思い、そこでスポーツの勝負の世界とチームを振り返り、トップに立って会社をまとめていく覚悟を決めた[1]。のちに当時を語った久美は、新卒教師を経験しただけの自分には会社とはどういうものか知る由もなく、「むしろ、会社に勤めた経験があったら、『やる』とは言わなかった気がします」としている[1]

重雄は生前、生まれ育った岐阜県に店を出し「故郷に錦を飾りたい」との夢を語っていた[12]2017年9月29日、久美は岐阜市長住町に岐阜長住店をオープンさせ、創業者で夫の遺志を継いだ[12]

母の視点からママ会のためのキッズルームを備えた千種駅前店[13]

久美が経営トップの座を引き継いでからちょうど3年の2019年8月期決算では、会社の売上高は81億円となり[14][15][注 5]、過去最高に伸ばした[15]

2020年になり、会社は飲食業界に大影響を及ぼしたコロナ禍の打撃を受けた[10][15]。長女は大学生、次女は高校生になっていたが、長男はまだ小学生だった[16]。店は行政による営業制限の要請を受けての休業を余儀なくされ、ひどいときには売り上げは前年と比べて9割減に陥った[1][14]。それでも給料は全額支給する方向で調整し「わが子同然」だという従業員の生活を守った[1]。苦渋の選択ではあったが2021年になるころまでには10店舗以上の一部の店を閉め、中長期的観点から難局をしのぐことになった[10][15]

主力の業態を直撃する居酒屋離れが深刻化する時期の中で、久美が目を向けているのは持ち堪えを見込んだ既存のレストランカフェなどの事業展開であり、転換期として「今後も会社を存続し、損失を取り戻すために必死で頑張らなくてはなりません」と語っている[10]。具体的な新事業の例では、コロナ禍を乗り越える方策として干物おばんざいといった、酒の提供だけでなく食事処のニーズに対応できるメニューの店[注 6]フレンチトースト専門店を開業した[14]。また、「山ちゃんブランド」を活かした多角化戦略にも怠りがなく、「店舗を持たない方法」に着目した上でカスタマージャーニーを取り入れ、「幻の手羽先」の冷凍食品の商品化やキッチンカーによる移動販売異業種コラボレーションに見られる水平展開を図った[14]

人物[編集]

亡き夫で創業者が残した言葉に「立派な変人たれ」という信条があり[15][18]、それに人を繋ぐ「笑い」や新しいことに挑戦していく「変化」があるのを見出した久美は、指針として会社の企業理念の一部にしている[15] 。夫はあるとき、多忙な業務により新たな課題に直面している社員の緊張を解くために、社内会議の場に七色のアフロヘアーのかつらを被って「大真面目に出席した」と聞いており、久美はそういった夫の非凡な人柄を社風として受け継ぐのが、妻ならではの役目であるとしている[15]

前述の店内掲示用かわら版通信とは題字を「てばさ記」とするもので、結婚後に夫から「料理を待つお客さんの気が紛れるように」と頼まれたのに応じたのが発行のはじまりとされている[16]。店の看板で夫がモデルのイメージキャラクター「鳥男」をあしらい、すべて久美よる手書きで月に一回のペースで休むことなく続け、2020年4月で233号(約19年半)にも及んだ[16]

教師の仕事をきっぱり辞めて結婚してから、内助の功に励んで夫を支え専業主婦であり続けた所以は、「私はもともと結婚したら家庭に入るのが夢で、家族が憩える場をつくることが幸せだと思っていました」と語っており、切羽詰まった中で「これも運命」と会社経営を引き受けはしたが、亡くした父の分も母として家庭のことを常に省みながら、もしも安心してトップの座を交代する目途が立てば、子どもたちと過ごす時間を取り戻したい思いもあるのだという[16]。日曜日には長男の父の代わりにキャッチボールの相手をしていた[4]

出身校である名古屋市立向陽高等学校の同学年に歌手の岡田有希子[19][注 7]、1学年上に元東京都議会議員木下富美子がおり[20]、また、同校はカドヘリンの発見者の竹市雅俊ノーベル物理学賞受賞者の益川敏英を輩出していることでも知られ[21][22]、愛知県内でも有数の進学校に数えられている[23]

地元が同じで中学から久美のことを知っていて、大学に進んでからは大の仲良しとなった女友達によると、昔からけっこうおちゃめな乙女であるのは今も変らず、プライベートでは心配になるほど方向音痴で目が離せないところもあり、かつては放っておけずバスケットボールの遠征先に付き添っていったという[1]。久美によると、夫は家庭では「おっちょこちょいな私がどんなにミスをしても、一度も責められたことがないんです」といい、会社でも利益追求を社員に強要することは一切なかったという[10]

趣味は「お菓子づくり」で、フルーツケーキから栗きんとんまで季節ごとの素材を活かしたこだわりがあるのだという[2]。そういったこともあり、代表取締役に就任後は店では女性や家族連れの客に受けがいいデザートメニューを増やした[2]。他にも本格的に取り組んでいる家庭菜園を挙げており、夏野菜の収穫時期には、ほとんど自給自足で間に合っているとし、「何でもそうですが、手をかければ手をかけるほど、必ず(成果が)返ってくる点ですね」と話している[2]。しかし経営者となってからは、主婦業やその合間の趣味・自由時間などの日課は9時間半に及ぶ勤務時間へ置き換わり、さらに通勤や寝る前と起きてからのメールチェックにあてる時間を確保するなどすると、睡眠時間を以前の6時間から4時間に圧縮するよりほかなく、家族団欒の時間もそれなりに減った[24]

著書[編集]

  • 監修本 『まんがでわかる世界の山ちゃん成長の極意 上』コラボレット, のんだひろみ 作画、ゴマブックス、2020年11月。ISBN 978-4-8149-2237-6 
  • 監修本 『まんがでわかる世界の山ちゃん成長の極意 下』コラボレット, のんだひろみ 作画、ゴマブックス、2021年5月。ISBN 978-4-8149-2241-3 

脚注・出典[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 久美によるとワイロのように思えて一旦は返したが、「こんなものただの運動着だからもらっておきなさい。別にどの部活に入っても使えるんだから」と言われ受け取ることになった[1]。また、当時は全国の中学が荒れていた時期であったが、井上から「バレー部には不良の先輩がいる」と吹き込まれもしたという[1]
  2. ^ その後も両者の親交は月に一度は電話で話す程度に途切れることなく続いている[1]
  3. ^ 久美は部活で疲れてくたくたになって帰宅すると、明日のために速やかに就寝に入る日課であったが、それでも早起きしてから家での勉強に励んでいたため、通知表はオール5だったという[1]
  4. ^ なお、週刊女性PRIMEの取材に応じた久美は、同部における指導から発展して1993年、26歳のとき、同校の選手を主力とするクラブチーム「昭和ミニバスケットボールクラブ」を結成、「監督」となり創立1年目で全国大会を制覇したと語っているが[1]、鹿児島市中部バスケットボール教室のサイトの特集記事で語った服部幸男によると、昭和クラブは1986年に服部によって創設されており[5]、1991年に小学校を卒業している渡邉温子も自身の指導者の一人に「昭和ミニバスの服部幸男先生」がいると述べている[6]。また、バスケットボールキングの記事でも「昭和ミニはトップ指導者である服部幸男氏をメインに、高校や大学、Wリーグなどで活躍する選手を多く輩出」とし、具体例に山本麻衣などの選手名を挙げている[7]
  5. ^ 夫が死去した2016年8月期決算は、売上高75億円であった[2]
  6. ^ 公式サイトによると、店では三重県や静岡県の工場から直送の干物や手作りのおばんざいを用意し、青森県まっしぐらのご飯をおかわり自由にすることで付加価値を創出している[17]
  7. ^ 岡田は入学後、芸能界入りのため堀越高等学校へ転校[19]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at 千羽 ひとみ (2020年7月19日). “『世界の山ちゃん』夫の急死で、経営素人の妻が社長になってみせた手腕”. 週刊女性PRIME. 2022年2月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月17日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 清丸惠三郎 (2017年3月17日). “【トップ直撃】「世界の山ちゃん」エスワイフード・山本久美社長、創業者の夫急逝で「経験ゼロ」で就任 守から攻へ…競争激化の外食産業で奮闘 (3/3ページ)”. zakzak. 2022年2月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月17日閲覧。
  3. ^ a b c d 清丸 惠三郎 (2017年3月17日). “【トップ直撃】「世界の山ちゃん」エスワイフード・山本久美社長、創業者の夫急逝で「経験ゼロ」で就任 守から攻へ…競争激化の外食産業で奮闘 (1/3ページ)”. zakzak. 2022年2月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月17日閲覧。
  4. ^ a b 「偉い人ほど威張っちゃダメ」 居酒屋「世界の山ちゃん」代表取締役・山本久美のセブンルール - フジテレビュー!!”. フジテレビジョン (2021年7月28日). 2022年2月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月19日閲覧。
  5. ^ 塩福 岩寿 (2021年1月25日). “①愛知県 昭和クラブ 服部幸男先生の言葉”. 鹿児島ミニバス(U12バスケ) CREST<クレスト>の情報室 NPO法人鹿児島市中部バスケットボール教室. 2022年2月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月17日閲覧。
  6. ^ 吹っ切れなかった自分を捨てデンソーで新しい自分になる!”. Wリーグ(バスケットボール女子日本リーグ)公式サイト (2005年9月1日). 2022年2月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月17日閲覧。
  7. ^ 田島 早苗 (2020年4月3日). “【Wリーグ・マネージャーの履歴書#4】アイシン・エィ・ダブリュウィングスは、ベテラン&ルーキーのコンビ!”. バスケットボールキング. 2022年2月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月17日閲覧。
  8. ^ 荻島 央江 (2020年1月17日). “夫急逝で専業主婦から転身 「世界の山ちゃん」 社長”. 日経ビジネス電子版. 2020年2月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月20日閲覧。
  9. ^ a b c d 高島 三幸 (2020年4月1日). “夫の急逝でまさかの社長に:49歳で「世界の山ちゃん」社長 今も必ず家族で朝食”. NIKKEI STYLE. 2021年2月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月21日閲覧。
  10. ^ a b c d e f 莇 陽子 (2021年3月8日). “【朝日新聞デジタル特集5】企業オーナーが相続に備えて知っておくべきこと”. UBS SuMi TRUSTウェルス・マネジメント株式会社. 2022年2月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月18日閲覧。
  11. ^ 山田清機 (2021年10月14日). “「優秀な経営者には真似できない」世界の山ちゃんを過去最高売上に導いた元専業主婦の"意外な手法" 素人だから実現できた赤字店舗ゼロ”. PRESIDENT Online. 2022年2月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月18日閲覧。
  12. ^ a b 居酒屋:世界の山ちゃん故郷に錦…創業者の夢、岐阜初出店”. 毎日新聞 (2017年9月29日). 2022年2月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月18日閲覧。
  13. ^ キッズルームについて”. 世界の山ちゃん 株式会社エスワイフード. 2022年2月18日閲覧。
  14. ^ a b c d コロナ禍を逆手に取りブランドの可能性を広げ新たな業態と展開に挑戦―エスワイフード”. 経済界ウェブ (2021年10月29日). 2022年2月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月18日閲覧。
  15. ^ a b c d e f g 山本久美による特集記事 主人が遺したものを引き継ぎ伝承する”. 致知出版社 (2022年1月1日). 2022年2月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月18日閲覧。
  16. ^ a b c d 平井 一敏 (2020年5月7日). “「世界の山ちゃん」代表 山本久美さん カリスマ経営者の夫が亡くなった日に…「これも運命」 | 子育て世代がつながる - 東京すくすく”. 東京新聞. 2022年2月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月18日閲覧。
  17. ^ ひもの亭とと”. 世界の山ちゃん 株式会社エスワイフード. 2022年2月18日閲覧。
  18. ^ 会社概要”. 世界の山ちゃん 株式会社エスワイフード. 2022年2月19日閲覧。
  19. ^ a b 竹内まりやも「希有な存在」と評す 没後30年、岡田有希子とは何だったのか (2/2)”. AERA dot. (2016年4月6日). 2021年9月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月19日閲覧。
  20. ^ 略歴 | プロフィール”. 木下ふみこ(都議会議員)公式サイト. 2021年7月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月19日閲覧。
  21. ^ 田中 多喜彦 (2007年3月). “研究開発実施報告書 - スーパーサイエンスハイスクール” (PDF). 名古屋市立向陽高等学校. 2022年2月19日閲覧。
  22. ^ 冨岡 史穂 (2009年2月8日). “益川さん「勉強よりstudyを」 母校で語る - ノーベル賞”. 朝日新聞. 2022年2月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月19日閲覧。
  23. ^ 田中 多喜彦 (2019年5月23日). “サンデー毎日発:東大・京大、早大・慶大……難関大合格者 10年で伸びたベスト500高校”. 毎日新聞. 2022年2月19日閲覧。
  24. ^ 高島 三幸 (2020年4月1日). “チームワークで「世界の山ちゃん」を再生:49歳で「世界の山ちゃん」社長 今も必ず家族で朝食”. NIKKEI STYLE. 2020年6月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月21日閲覧。

関連項目[編集]