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山川千秋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山川 千秋
生誕 1933年9月16日
日本の旗 日本東京都
死没 (1988-10-09) 1988年10月9日(55歳没)
日本の旗 日本神奈川県川崎市
教育 東京都立小山台高等学校
東京大学法学部
職業 ニュースキャスター解説委員
活動期間 1959年 - 1988年
代表経歴FNNニュースレポート23:00
FNNニュースレポート6:00
ニュース工場一本勝負
FNNモーニングコール
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山川 千秋(やまかわ ちあき、1933年(昭和8年)9月16日 - 1988年(昭和63年)10月9日)は、日本のジャーナリスト。フジテレビ解説委員ニュースキャスター

来歴・人物

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東京都立小山台高等学校東京大学法学部卒業後、1959年フジテレビに入社[1]

1960年フルブライト留学生として渡米、イリノイ州ノースウェスタン大学ジャーナリズム科で学んだ。1968年ニューヨーク特派員、その後ロンドン特派員。この間、欧州中東諸国を歴訪、取材。ドバイでの日航機ハイジャック事件では、ロンドンから駆けつけるなどした[2]。キャスターを務めた後ワシントン支局長を経て、1986年2月に帰国。帰国後は解説委員及びニュースキャスターに就いた。

1970年代から80年代にかけてのフジテレビの報道部門を代表する存在となり、温厚なマスク、ソフトな語り口で人気を博し、国際派キャスターとして知られた[2]。しかし、次第に声がかすれるようになり、食道癌を患っていることが判明、1988年3月限りで担当番組を降板。治療に専念するため聖マリアンナ医科大学病院に入院し、6月に手術を受けた。だが合併症を発症、9月30日付でフジテレビは定年退職になったが、それから間もない、10月9日午前11時28分に同病院で息を引き取った(55歳没)[1]

壮絶な闘病生活やキリスト教への入信などの様子は、死後に妻との共著として出版された『死は「終り」ではない 山川千秋・ガンとの闘い一八〇日』に詳しい。40代からかつらを着用するようになり、自宅の寝室で寝るときを除いては、たとえ息子の目の前であっても外さなかったという。

親族

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ロンドン特派員時代に日本航空スチュワーデスだった穆子と再婚。二男を授かっている[2]。長男・山川冬樹英語版[注 1]は、現代美術家サウンド・アーティスト英語版パフォーマンスアーティスト)であり、父が遺した音源を用いた作品も発表している[3]

現役時代の担当番組

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期間 番組名 役職 備考
1977年4月4日 1979年9月28日 FNNニュースレポート23:00 キャスター
1979年10月1日 1984年3月16日 FNNニュースレポート6:00 俵孝太郎と入れ替わり
1986年10月1日 1987年3月31日 ニュース工場一本勝負
1987年4月1日 1988年3月23日 FNNモーニングコール 病気療養のため途中降板

著書

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  • 『日本人が見えてくる本 ― テレビでは話せない、もう一つの日本人論』主婦と生活社〈21世紀ブックス〉、1981年9月。 
  • 『山川千秋の「キャスター自画像」』講談社、1981年12月。ISBN 978-4061459090 
  • 『あなたは国際派それとも 国境と海からの証言』集英社、1982年9月。NDLJP:11926674 

共著

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  • 山川千秋、山川穆子『死は「終り」ではない 山川千秋・ガンとの闘い一八〇日』文藝春秋、1989年3月。ISBN 978-4163430201 
    • 山川千秋、山川穆子『死は「終り」ではない 山川千秋・ガンとの闘い一八〇日』文藝春秋〈文春文庫〉、1991年10月。ISBN 978-4167283056 

脚注

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注釈

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  1. ^ 1973年生まれ。父は当時、特派員としてロンドンで勤務。

出典

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  1. ^ a b 『朝日新聞』1988年10月10日 27頁
  2. ^ a b c 「山川千秋キャスター55歳の死「夫に癌を告知した」妻のたった一人の決断」『週刊ポスト』1988年10月28日号
  3. ^ ARTISTS 山川冬樹 Fuyuki Yamakawa”. 美術手帖. Adam byGMO. 2022年6月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月13日閲覧。

参考文献

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  • 『現代日本人名録』日刊アソシエーツ
先代
-
FNNニュースレポート23:00
男性メインキャスター
初代(1977年1979年
次代
俵孝太郎(1979年~1987年