山崎家盛
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 永禄10年(1567年)3月 |
死没 | 慶長19年10月8日(1614年11月9日) |
別名 | 与市/輿一[1]、左馬允(通称) |
戒名 |
瑞光院明光宗覺大居士[2] 瑞光院明江宗覺大居士[3] |
墓所 |
京都府京都市山科区安朱堂ノ後町の大徳寺塔頭瑞光院 鳥取県八頭郡若桜町若桜の龍徳寺 |
官位 | 従五位下左馬允[2][1]、従四位下侍従[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 豊臣秀吉、秀頼、徳川家康、秀忠 |
藩 | 因幡若桜藩主 |
氏族 | 近江山崎氏 |
父母 | 山崎片家、池田教正娘[2] |
兄弟 |
家盛、本庄郷高[4]、宮城頼久[5]、 加藤清正正室、加藤百助[6]、別所吉治正室 |
妻 | 池田恒興娘天球院[7] |
子 |
家治、久家、赤田家長[8]、家正[9]、 権兵衛[9]、半井古庵室 [一説に]定勝(家勝)[11] |
山崎 家盛(やまざき いえもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。摂津国三田城主、後に因幡国若桜藩初代藩主。
生涯[編集]
永禄10年(1567年)3月、近江国山崎で[1]山崎片家の嫡男として誕生[10]。
天正19年(1591年)、父・片家が死去によってその跡を継ぎ、摂津国
文禄元年(1592年)、文禄の役には秀吉に従って本陣の御前備衆として800名を率い[12]、対馬の防衛と軍艦の輸送を担った[10][13]。7月、肥前名護屋城西の丸を守備した[10]。
文禄3年(1594年)、伏見城普請を分担[10]。慶長3年(1598年)8月の秀吉の死において遺物道永の刀を受領。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の役では、7月23日、摂津三田から親戚の宮城豊盛と共に石田三成の挙兵を、会津征伐で下野国小山にいた徳川家康に伝えた[14][2][15]、三成の催促を受けて大坂城で面会して西軍に与することになった[14][2]。西軍として小野木公郷らと細川幽斎が守る丹後国田辺城攻めに参加。しかし内通しているために積極的に攻め入ることなく、ほとんど膠着状態のまま帰結した。
戦後、西軍に与したことにより改易されそうになるが、義兄・池田輝政の尽力[16]や三成の挙兵の報告をした功があるとして許され、所領2万3,000石は安堵された[10]。同年冬(または翌年)、因幡若桜城(八頭郡)に転封になり、7,000石の加増で、併せて知行3万石となった。また、従四位下侍従に叙任された[3][10]。
慶長8年(1603年)3月5日、摂津国の住民が有馬郡藍村・本庄村で新町を開いたのに対して、領主の家盛は諸役の免除を許した[17]。
慶長10年(1605年)、但馬国二方郡のうち2,900石分だけを取って、大部分である6,014石を実弟・宮城頼久に分知して分割支配とした[18]。
慶長19年(1614年)、京都で死去。享年48。
系譜[編集]
脚注[編集]
- ^ a b c d 山崎家譜, p. 14.
- ^ a b c d e 堀田 1923, p. 249.
- ^ a b 山崎家譜, p. 18.
- ^ 本庄秀国の養子。
- ^ 宮城豊盛の養子。
- ^ 加藤清正の養子のち離縁。
- ^ 家盛との間には子はもうけなかった。後に離縁。
- ^ 山崎家譜, p. 30.
- ^ a b 山崎家譜, p. 31.
- ^ a b c d e f g h 高柳 & 松平 1981, p. 260.
- ^ 諸系図には名前はないが、家盛の子という[10]。ただし年齢的に無理があるので庶兄・庶弟か。秀吉の側近として活動は定勝(右京進)の方が目立ち、慶長3年8月18日に亡くなった秀吉の形見分けの序列でも定勝の方が上位にある。
- ^ 吉村茂三郎 著「国立国会図書館デジタルコレクション 松浦古事記」、吉村茂三郎 編 『松浦叢書 郷土史料』 第1、吉村茂三郎、1934年、127頁 。
- ^ 山崎家譜, p. 15.
- ^ a b 山崎家譜, p. 16.
- ^ 史料綜覧11編913冊236頁。
- ^ 一説には輝政の室で家康の娘である督姫を大坂から脱出させた功とも。
- ^ 大日本史料12編1冊132頁。
- ^ 今井林太郎 編 『兵庫県の地名 1 摂津・丹波・但馬・淡路編』平凡社〈日本歴史地名大系〉、1999年、659頁。ISBN 9784582910193。
参考文献[編集]
- 高柳光寿; 松平年一 『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、260頁。
- 堀田正敦「国立国会図書館デジタルコレクション 宇多源氏 佐々木庶流 山崎氏」 『寛政重脩諸家譜. 第3輯』國民圖書、1923年、249頁 。
- “『山崎家譜』”. 東京大学史料編纂所. 2018年11月9日閲覧。