山口秀景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

山口 秀景(やまぐち ひでかげ[1]、生年不詳 - 天正11年1月12日1583年2月4日[2])は、戦国時代武将織田信長の家臣[3]仮名は甚介[4]受領名玄蕃[2]は光広、長政とも[2][注釈 1]。子に山口宗永[6]

略歴[編集]

秀景は山城国国人[7]宇治田原城[5]

当初は公家葉室家で、後に将軍足利義昭に仕え「武家御足軽」となった(『言継卿記』)[2]。その前歴より、山科言継ら公家との連絡に携わる様子が多く見られる[2]。また、織田信長との連絡役も務め、永禄12年(1569年)閏5月には美濃に派遣され、元亀2年(1571年)8月には北近江の信長の陣へと赴いている[2]

天正元年(1573年)の義昭追放後は、信長に仕えたとみられる[2]。天正3年(1575年)12月には津田宗及の茶会に出席し、天正7年(1579年)9月には宇治川平等院前に橋を架けるよう、松井友閑とともに信長から命じられた[2]。天正10年(1582年)3月には甲州征伐に従軍している[2]

同年6月に本能寺の変が起こった際は、帰国途中の徳川家康宇治田原で歓待したという[2]

天正11年(1583年)1月12日、死去(『兼見卿記』)[2]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 寛政重修諸家譜』では光広と長政は別人とされ、多羅尾光俊の子の光広が山口長政の娘を娶り、山口姓を名乗ったとされる[5]

出典[編集]

  1. ^ 谷口 2010, pp. 516–517; 谷口 2014.
  2. ^ a b c d e f g h i j k 谷口 2010, pp. 516–517
  3. ^ 寛永系図 1984, p. 54
  4. ^ 谷口 & 岡田 2009
  5. ^ a b 寛政譜 1923, p. 1103
  6. ^ 石川県 編『石川県史 第2編』石川県、1936年、146頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1184466/108 
  7. ^ 谷口 2014

参考文献[編集]

  • 寛政重脩諸家譜 第三輯』國民圖書、1923年2月20日https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082714/560 
  • 斎木一馬・林亮勝編 編『寛永諸家系図伝』 7巻、八木書店、1984年11月1日。ISBN 978-4797102420 
  • 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年10月1日。ISBN 978-4642014571 
  • 谷口克広『<織田信長と戦国時代>元亀騒乱を乗り切れ! 織田信長と七人の宿将』学研プラス〈歴史群像デジタルアーカイブス〉、2014年10月9日。ISBN 978-4059139614 
  • 谷口克広・岡田正人監修『織田信長軍団100人の武将』新人物往来社〈新人物文庫〉、2009年6月5日。ISBN 978-4404037114