小鴨由水

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

小鴨 由水こかも ゆみ1971年12月26日 - )は、日本の女子陸上競技長距離走マラソン選手。元女子マラソン日本最高記録保持者・1992年バルセロナオリンピック女子マラソン日本代表。

兵庫県明石市出身。1990年兵庫県立明石南高等学校卒業後、大阪府池田市ダイハツ工業に入社。1994年龍谷大学短期大学部に入学、1996年に短大卒業。現在は二児の母で、福岡市在住。

経歴[編集]

バルセロナ五輪出場まで[編集]

ダイハツに入社してから1年半後、1991年10月の全日本実業団選手権大会の女子10000mでは33分19秒94で10位となり、チームの先輩だった浅利純子(16位)よりも先着した[1]。11月の神戸女子20kmロードでは浅利とゴールまで競り合い、敗れはしたがともに日本最高記録に近いタイムであった[1]。このように力を付けてきてはいたものの、その時点ではオリンピック代表候補として注目されるランナーではなかった。

当時小鴨がまだ20歳になったばかりの1992年1月、バルセロナオリンピック女子マラソンの代表選考会であった大阪国際女子マラソンで初マラソンに挑戦したが、レース前の小鴨は特に優勝争いも五輪も全く意識していなかったという。ところが、同マラソンの36km地点過ぎまで小鴨と浅利は先頭で併走し続け、その後浅利が脱落すると小鴨の完全独走状態となる。そして浅利と同じくバルセロナ五輪女子マラソン代表選出を狙っていた松野明美(彼女も初マラソン)のレース後半の追い上げも退けて、いきなりフルマラソン初優勝を果たした。大阪国際女子マラソンでは日本人として初めての優勝者、しかもゴールタイムの2時間26分26秒は当時の日本女子最高記録、さらに女子選手として初マラソン世界最高記録という快挙で、小鴨は20歳で一躍日本女子マラソン界のトップに立った。

初マラソンとはいえ、文句のない成績からバルセロナオリンピック・女子マラソン日本代表に選出された。それでも想定外ともいえる小鴨の代表選出は、のちに松野明美と有森裕子の代表争いの騒動を呼ぶきっかけともなった(結果有森が3番手で選出し松野は落選)。小鴨自身も「まさか自分がオリンピック代表選手になれるとは夢にも思わなかった」と、当時は嬉しさよりも戸惑いの方が大きかったという。またその大阪国際女子マラソンのゴール直後には、当時のダイハツ・鈴木従道監督から「君は(浅利の)ペースメーカーだったんだよ」と、暗に彼女の優勝は望んでいなかったようなことを言われたともされる。さらにバルセロナ五輪日本代表決定の後は、周囲からの期待が大きなプレッシャーとなり、後年小鴨は「オリンピックに出るのが怖くなった」と当時の事を述懐していた。

1992年6月、バルセロナ五輪本番に向けた高地トレーニングで体調を崩した影響からか、オリンピック前の壮行記録会での小鴨は先頭から周回遅れにされ、ゴール後に思わず悔し涙を流してしまう。一時は五輪代表辞退、補欠代表の谷川真理が繰り上がるのでは、という報道もされたが、ダイハツ側がそれを否定し強行出場となる。その1992年8月のバルセロナ五輪女子マラソン本番レースでは、号砲直後小鴨だけ一人飛び出し積極的な処も見せたが、ほどなくして集団に吸収された後はメダル・入賞争いから脱落。結局万全の体調では無い状態での出走となり、何とか完走はしたものの2時間58分台の29位に終わった(当初小鴨は30位でゴールしたが、ドーピング違反者が出たため29位へ繰り上げ)。翌1993年3月、「仕事で走るのが嫌になったというのが本音です」と語り、小鴨はダイハツを退社した。

市民ランナーとして[編集]

ダイハツ退社後は明石市の実家に戻り、一時陸上競技からは完全に遠ざかっていたが、1994年に龍谷大学短期大学部社会福祉科に入学。短大卒業後の1996年、福岡市の岩田屋陸上部に入部。重松森雄監督の指導を受けながら、全日本実業団対抗女子駅伝にアンカーとしても出場した。しかし、1999年に岩田屋陸上部の廃部に伴い退社。2000年1月の大阪国際女子で一般参加選手として8年ぶりにフルマラソンに復帰、3時間24分台の記録ながら完走(かつて同ダイハツ所属のチームメートだった浅利純子も大阪国際にエントリー、シドニーオリンピックを目指して国内招待で出場したが15Km過ぎで途中棄権、同マラソンが現役ラストランとなった)。

1998年、2歳上のパン職人と結婚し松永姓となった。2002年、第一子を出産。翌年の11月、自身初めて「ママさんランナー」として東京国際女子マラソンに出走。2006年、第二子を出産。

2007年1月から岩田屋時代の監督だった重松森雄のもと、競技を再開。設立されたクラブチーム、ファーストドリームACに参加し、2009年1月の大阪国際女子マラソンへ9年ぶりに出場。バルセロナ五輪時の自身のタイムを上回ることを目指していたが、あと34秒届かずゴール後に「悔しい」と苦笑いを浮かべていた。しかし、同年8月の北海道マラソンでは、最高気温が25度を下回る好条件も有り、2時間52分台でゴールを果たす。翌2010年1月の大阪国際女子マラソンにも2年連続で出場、雨天の中昨年の同大会よりも8分以上タイムを更新、自身2番目のマラソン記録となった。

その後2010年9月にファーストドリームACを退部、主に個人で練習を続けている(現在所属は大濠ランナーズ)。翌2011年1月、コースが一部変更された大阪国際女子マラソンへ、「小鴨由水」での登録で出走。しかし低過ぎる気温と冷たい強風の悪天候が影響してか、3時間切りのゴールタイムは達成出来なかった。同年11月には地元兵庫県で開催の第1回神戸マラソンに出場、女子選手では全体8位の好成績でフィニッシュした。

しかし夫とは、2011年に生活のすれ違い等を理由に離婚。小鴨姓に戻りシングルマザーとして生活していた。福岡市社会福祉事業団に勤務し、福岡市障がい者スポーツセンター、老人福祉センター、心身障がい福祉センターの指導員も務めていた。だが2014年1月に、元夫を大動脈解離で突然亡くしてしまう。それを機にフコク生命の営業職に転身。また、有森裕子が設立した「ライツスポーツネットワーク」のメンバーとして、スポーツイベントでの講師も行っている。

自己記録[編集]

マラソン全記録[編集]

テレビ出演[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 陸上競技マガジン』1992年3月号、ベースボール・マガジン社
  2. ^ 石橋貴明のスポーツ伝説…光と影(TBS)

外部リンク[編集]