小関三英
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小関 三英(こせき さんえい、天明7年6月11日〈1787年7月25日〉 - 天保10年5月17日〈1839年6月27日〉)は、江戸時代後期の医者・蘭学者。名は好義、幼名は弁助、通称は良蔵。号は鶴斎、鶴洲、篤斎など。
生涯
[編集]天明7年(1787年)出羽庄内藩給人組外・小関知義(弥五兵衛)の次男として鶴岡に誕生。幼少期に火傷を負って足が不自由となる[1]。
文化元年(1804年)江戸に上り、吉田長淑・馬場佐十郎に蘭学と医学を学ぶ。
文政4年(1821年)故郷の鶴岡に帰り医者を開業するが、翌文政5年(1822年)には蘭学者・大槻玄沢の紹介で仙台藩医学館の教師に着任する。翌文政6年(1823年)長崎に赴いてシーボルトの下で学ぶ[2]。文政8年(1825年)和泉岸和田藩医となり、翌文政9年(1826年)コンスブルフの内科書を和訳して「泰西内科集成」を上梓する。その後、渡辺崋山の推薦で再び岸和田藩医となり、のち幕府の天文方阿蘭陀書籍和解御用、すなわち翻訳係となる[1]。なお、この時期に甥の高彦(兄・仁一郎の次男)を養子に迎えている[3]。
この頃から渡辺崋山・高野長英らと親交をもち、尚歯会に参加、歴史や地理を講じる。蛮社の獄の際、崋山・長英の入牢を聞き自害、享年52。崋山に「耶蘇伝」を口訳したことなどから連坐を恐れたものとされるが、三英には特に処罰される必然性はなく、自害は早計だったのではないか、とする意見もある。墓所は青山の龍巌寺。
人物
[編集]長崎でシーボルトに師事したとされてきたが、最近では長崎遊学、シーボルト門下とする典拠はないとされる。
西洋史にも興味を持ち、日本にナポレオン・ボナパルトを紹介した。著書に「西医原病略」「輿地誌」などがある。
著書
[編集]訳書
[編集]- 「那波列翁伝」リンデン著
- 「新撰地誌」
- 「西医原病略」
- 「輿地誌」
小関三英が登場する作品
[編集]参考文献
[編集]- 阿部正己 編『荘内人名辞書』言霊書房、1937年。doi:10.11501/1207116。全国書誌番号:46057487。2026年4月3日閲覧。
- 田中弘之『「蛮社の獄」のすべて』吉川弘文館、2011年。ISBN 978-4-642-08059-0。全国書誌番号:21950778。
- 鶴岡地区医師会『鶴岡地区医師会百年史』鶴岡地区医師会、1992年、7-8頁。doi:10.11501/13261952。全国書誌番号:92042050。2026年4月3日閲覧。