小錦八十吉 (6代)

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KONISHIKI(2005年・減量前)

小錦 八十吉(こにしき やそきち、本名同じ、1963年12月31日 - )は、アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島出身で現在は日本国籍(帰化)の元大相撲力士高砂部屋所属)、株式会社KP所属のタレント。現在はKONISHIKI(コニシキ)の芸名でタレント活動を行っている。他に子供向け教育番組などでコニちゃんの芸名を使用することもある。本名の旧姓は塩田、米国籍時代の本名はサレバ・ファウリ・アティサノエ (Saleva'a Fuauli Atisano'e)。帰化以前の大相撲時代にはサレバ・アティサノエと記載されたこともある。愛称はサリー、コニちゃん、黒船。現在の体格は身長184cm、体重153kg。血液型はAB型、星座は山羊座。

関取時代のプロフィールは、身長187cm、体重275kg(最重量時は285kg)。ロンドン巡業では当時大相撲史上最重量の巨体を形容する「ダンプトラック」の異名が与えられた[1]。得意手は突き、押し、きめ出し。最高位は東大関(外国出身初)。横綱を含む幕内力士としては3人目の小錦、十両以下を含めては6人目の小錦である。

生粋のハワイアンではなく、両親はサモアからの移民(ただしポリネシア人の身体形質・言語上の同質性は極めて高い)でサモア系アメリカ人でもある。10人兄弟姉妹の8番目(上から6人はサモア生まれ、小錦含む下の3人はハワイ生まれ、1人は従姉妹)。兄にアントニオ猪木と格闘技戦で戦ったこともあるアノアロ・アティサノエ。親族の中にアメリカのgangsta rapグループ、Boo Yaa T.R.I.B.E.のメンバーがいる。

来歴[編集]

小錦 八十吉 Sumo pictogram.svg
Konishiki.jpg
1996年5月場所、場所入りする小錦
基礎情報
四股名 小錦 八十吉
本名

小錦 八十吉
塩田 八十吉(旧姓)

(米国名:サレバ・ファウリ・アティサノエ)
愛称 サリー、コニちゃん、黒船[2]
生年月日 (1963-12-31) 1963年12月31日(54歳)
出身 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島
身長 187cm
体重 275kg
BMI 78.64
所属部屋 高砂部屋
得意技 突き、押し、右四つ、寄り[3]
成績
現在の番付 引退
最高位大関
生涯戦歴 733勝498敗95休(93場所)
幕内戦歴 649勝476敗89休(81場所)
優勝 幕内最高優勝3回
十両優勝2回
序二段優勝1回
序ノ口優勝1回
殊勲賞4回
敢闘賞5回
技能賞1回
データ
初土俵 1982年7月場所
入幕 1984年7月場所
引退 1997年11月場所
引退後 佐ノ山親方
他の活動 タレント
備考
金星2個(千代の富士1個、隆の里1個)
2012年12月28日現在

元大関で現役引退後は当初、年寄佐ノ山を襲名し高砂部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、人気者だったため、タレントに転向。旧芸名四股名をローマ字にした「KONISHIKI」であった。「小錦八十吉」は高砂部屋の由緒ある四股名であり芸名としての使用は許可されなかった[A 1]。その代わり、ローマ字の「KONISHIKIは?」と聞かれて、ローマ字ならOKと許可が下りた。この時点で名字は前妻の「塩田」を名乗っており、「小錦」と改姓した時期はその後、前妻と離婚し再婚した後である。芸名としては認められなかったが本名としては認められた。株式会社KP(Konishiki Powerの略)を設立して活動し、特にCMで好評を博した。歌手としてもアルバム「Konishiki KMS」「Konishiki Simply」を出した。2003年5月には東京ドームシティでレストラン「あんばらんす」を出店した。しかし、2010年5月に今後はハワイアン歌手としての活動を除き、本名の小錦八十吉名義で活動することを自身のブログで公表した[4][5]

入門〜「ハワイの黒船」[編集]

サモア系移民の家庭に生まれ、貧しいながらも敬虔なクリスチャンである厳格な両親の元で育てられた。小学校から運動万能で水泳・陸上・バスケットボールで楽しんだ。私立高校に入ると真面目だった素行が悪化して毎日喧嘩に明け暮れ、兄と2人で親戚の救援に駆け附けて、バットで右眼が見えなくなる程に殴られたにも関わらず20人を倒したり、教会の賛美歌の練習を怠けて遊びに行ったのが父に知られて背中をホースで滅多打ちにされ、2日間は横になって寝られずに椅子に座って寝た。心配した父にハワイ大学附属高校へ転校させられると素行が元に戻り、スポーツと学業に身を入れ始めた。アメリカンフットボールではオフェンスラインマンとして活躍し、4年生では主将を務めてハワイ州高校オールスターにも選ばれ、パワーリフティングではスーパーヘビー級選手としてハワイ州のチャンピオンになるほど活躍した。学業では特に数学が得意で、将来はシュラキュース大学へ進学しての弁護士を志していた[6]。他にも吹奏楽団でサックス担当として本土へ演奏旅行に出かけたりもした。以前から知人の元プロレスラーに入門を勧誘されていたが、高見山とも親しい人だったので、1982年(昭和57年)5月末にホノルルで完成した「高見山記念土俵」の土俵開きと墓参りで訪ねて来た高見山に紹介されて熱心に勧誘され、家計の苦しさも知っていたので入門を決意し、泣いて反対する母を説得して1982年(昭和57年)6月に入門した。成田空港に降り立った時の小錦は、上はTシャツ、下は民族衣装の巻きスカート姿で、手にした小さなカバンの中は着替えのシャツなどのほか、バイブルや家族写真、それに母親が持たせてくれた5000円札1枚だけであった。初土俵は同年7月場所。新弟子検査では体重計の目盛を振り切ってしまい、急遽もう1台用意して脚を片方ずつ乗せて測定(1台では150kgまでしか測れなかった、105kg+70kgと記録されている。)[A 2]したり腕が太すぎて血圧計が使えないなどの破格振りを示した[6][7]。足のサイズは35cmあった。国技館に常設されている力士専用トイレの個室便器は、彼が使用すると小さすぎたために、後に陶器メーカーに特注することになった[6]

入門すると高砂親方(元横綱朝潮)に押し相撲の基礎を教え込まれる。稽古では廻しを取ったり変わったりすると竹刀で容赦なく殴られた[7]。入門当初は兄弟子からいじめを受けたこともあった。兄弟子たちからの暴行や、身の回りの物を頻繁に隠されたり、故郷の親や友人から届いた手紙を捨てられたこともあったが、例え嫌がらせを受けても、その場で仕返しすることはしなかった。稽古で土俵に上がった時に相手を思い切り打ち負かすことで、兄弟子たちへの「復讐」をしていたという。それ以来部屋内で彼をいじめる者は誰もいなくなった。若い頃は髙見山に稽古をつけられ言葉や習慣の違いについても相談相手になってもらうなどいろいろと世話になったという。また、水戸泉もよき理解者で、水戸泉が優勝した場所では自ら優勝旗手を務めた。小錦も昇進後は後輩の外国出身力士の面倒をよく見たといい、部屋の後輩南海龍の酒癖を大層心配して、飲みに行った際南海龍が席を立った隙に酒とウーロン茶をすり替えてしまったというエピソードなどが伝わっている。後の横綱武蔵丸は入門当初から目をかけられており、ウエイトトレーニング器具を買ってもらうなどしたこともあるといい、私生活でも上下関係を廃して接する間柄だったという[8]

1984年7月場所、初土俵から所要12場所で新入幕。入幕2場所目、蔵前国技館での本場所開催が最後だった1984年(昭和59年)9月場所、前頭6枚目の地位で初顔合わせの千代の富士[A 3]隆の里の両横綱からそれぞれ初金星を奪い、千代の富士には完勝、さらに横綱昇進を目指した大関若嶋津も倒すなど上位陣をなぎ倒し12勝3敗、殊勲賞敢闘賞を獲得し「黒船来航(別名:襲来)」「小錦旋風(別名:台風)」と恐れられた[7][3][A 4]。印象的な「逆くの字」の守りに加え、この頃は「足腰も高見山とは全然違う」と評されるほどに足腰が良く、猪突猛進の攻めのみならず琴風のがぶり寄りをこらえることができるなど守りも非常に堅かった。この時代が最強だったという見方は根強い。しかし最大の苦手北天佑には初顔以来6連敗を喫するなど壁も多かった。実力の反面猪突猛進な取り口や地元紙のインタビューで発言したとされる「相撲は喧嘩だ」発言(「相撲はファイト」と言ったことが誤解されたという)等の過激な発言が「品格に欠ける」として一部で物議を醸し、小坂秀二に至っては「小錦は二場所連続優勝でも横綱にすべきではない」と雑誌の連載で表明していたほどであった[6]

1986年(昭和61年)1月場所小結で10勝、3月場所同じく小結で12勝を挙げた。特に3月場所は12番全ての決まり手が基本技であったことから前に出る相撲に徹したことが認められた形で技能賞を獲得した。関脇に復帰し大関昇進を懸けた5月場所(この場所は関脇)だったが7日目まで3勝4敗と不調、さらに8日目では小錦と同じ「花のサンパチ組」(昭和38年生まれ)のライバルだった、当時大関の北尾(のち第60代横綱・双羽黒)との対戦で、取り直しの一番で小錦がつり上げようとした所で北尾が鯖折りをかけ、両者合わせて400kg以上の体重が小錦の右膝に集中、耐えきれずにじん帯を損傷・骨折という大怪我を負ってしまう[3][9]。この負傷により2場所連続休場(当時は公傷が適用された)を余儀なくされ再び平幕の地位に転落、大関獲りも一旦振り出しとなる。

その後も右膝のケガはついに完治することなく、現役時代はこの後遺症に苦しんで好不調の波が大きくなり、大相撲史上最重量のその身体(当時約240kg)をむしろ持てあますことが多くなった。プッシュ戦法がツボにはまれば無敵であるが、一歩間違うと驚くほどもろいという土俵の繰り返しだった。膝の故障でどうしても稽古を減らさざるを得ず、それが体重を増やし余計に膝を悪化させる悪循環になったという。後年小錦は「筋肉の質が硬かった。武蔵丸の方が柔軟で僕より全然頑丈だった」と自身の体質について述懐している[8]

なお、それから翌年の1987年(昭和62年)3月場所8日目には、当時気鋭の大関であった北天佑との対戦で、皮肉にも北天佑の膝に小錦の全体重がのしかかる形で致命的な負傷を負わせてしまう。取り直しの一番では、北天佑が膝のケガを痛がっていることを察した小錦が、ケガを庇いながらそっと寄り切るという内容で勝利するも、翌9日目から北天佑は2場所連続休場(公傷適用)となった。

外国出身力士初の大関誕生[編集]

前頭4枚目から出直しとなった休場明けの1986年9月場所は12勝3敗の好成績で、翌11月場所は関脇に復帰。1987年1月場所で10勝、同年3月場所で11勝、そして再び大関昇進を懸けた同年5月場所では12勝を挙げ、3場所関脇の地位で合計33勝12敗を挙げ、5月場所後に小錦は念願だった大関昇進を果たす。さらに外国出身力士としては史上初めての大関誕生ともなった(同時に大関・北勝海も第61代横綱に昇進した)[3]

それから横綱を期待されたものの、最大の苦手北天佑に苦杯を嘗めさせられたり、膝の故障の影響で勝ち越しても8・9勝止まりの成績が続いたり、1988年(昭和63年)9月場所は3勝12敗という、15日制における大関としての皆勤最多敗タイ記録(当時、現在では千代大海2009年3月場所の2勝13敗)の大敗を喫してしまう。また同年9月場所直後には、面倒を見ていた弟弟子の元幕内・南海龍が飲酒をめぐるトラブルから突如廃業し、さらに数日後師匠の高砂親方が心労の影響からか脳溢血で急死するなど身辺でも不幸が相次いだ。元号昭和から平成に変わった1989年(平成元年)1月場所は3勝8敗と負け越してから途中休場、同年9月場所も皆勤ながら5勝10敗と負け越したりで、勝ち越しても最後まで優勝争いに加わる成績はほとんど残していなかった。

悲願の幕内初優勝〜綱取り挑戦[編集]

しかし次の11月場所、小錦は通算4度目の大関角番ながら絶好調、初日からストレートの8連勝で角番脱出。12日目に北勝海に敗戦となり連勝は11でストップしたが、最後まで優勝を争った千代の富士には、13日目の直接対決で勝利する。そして千秋楽では琴ヶ梅に勝って14勝1敗、ようやく悲願だった幕内初優勝を果たした[6]。小錦は髙見山に次いで、史上2人目の外国出身の優勝力士となった。なお初優勝を決めた瞬間、小錦は勝ち残りの土俵下で思わず涙を流している。当時のマスコミはその小錦の涙を「歓喜にむせぶ男泣き」と報道したが、実はそれは嬉し泣きではなかった。小錦は引退後に「なぜもっと早く優勝できなかったのか」と、余りの悔しさで思わず泣いてしまったのだ、と説明していた。このコメントは有名なエピソードである。

翌1990年(平成2年)1月場所では小錦自身初めての綱取りに挑戦。序盤戦は5連勝したものの、中盤戦で5連敗してしまい失敗、終盤戦5連勝の10勝5敗に終わった。同年3月場所では千秋楽、横綱北勝海・関脇(当時)霧島と三人共に13勝2敗同士の優勝決定戦巴戦)に進出。巴戦の1戦目では小錦が北勝海を下し、2戦目の霧島に勝てば小錦の優勝だったが惜しくも敗戦。3戦目は北勝海が霧島に勝利し、4戦目に再び小錦が土俵に上がったが、最後は北勝海の下手投げに敗れてしまい、結果幕内優勝は横綱北勝海、小錦と霧島は優勝同点に留まった(3月場所後に関脇・霧島は大関昇進となる)[6]

千代の富士が引退した1991年(平成3年)から安定期を迎え、同年5月場所から翌1992年(平成4年)3月場所にかけて6場所で75勝15敗の好記録を残した。1991年5月場所は小錦一人だけ初日から14連勝したが、同場所千秋楽結びの一番では、13勝1敗の横綱旭富士についに負けて15戦全勝優勝はならず。続く14勝1敗同士の優勝決定戦でも再び旭富士に肩透かしで敗れてしまい、逆転で旭富士に優勝を奪われた。それでも同年11月場所は、13勝2敗で2年ぶり2回目の幕内優勝を達成。翌1992年(平成4年)1月場所は12勝3敗(幕内初優勝した貴花田の14勝・優勝次点の曙の13勝に次ぐ3位相当の成績)、さらに次の3月場所は13勝2敗で2場所ぶり3回目の幕内優勝を果たしたが、これが小錦として現役最後の優勝ともなった[6]

かつてはこの成績なら当然横綱になれたが、「大関で2場所連続優勝」の内規を満たしていないとの判断により、日本相撲協会から横綱審議委員会への諮問は不運にもことごとく却下され、当時外国出身力士初となる横綱昇進は果たせなかった。その3月場所後、小錦自ら「横綱になれないのは人種差別があるからだ。もし自分が日本人だったらとっくに上がっているはずだ」と語ったという趣旨の記事がニューヨーク・タイムズに掲載された。また日本経済新聞にも「小錦が横綱になれないのは人種差別のせいだ」といった趣旨の記事が掲載された[10][7]。これらの件に関し、小錦はニューヨーク・タイムズの記事については小錦自身ではなく、自身の付き人である幕下力士・高竜(ハワイ出身)が本人に成り済まして電話で答えたものであり、日本経済新聞の記事についても「人種差別とは言っていない」と弁明した。しかし、これらの新聞記事の掲載対象となった発言が小錦自身によるものではないかという疑惑からバッシングが発生した。報道陣から取材が殺到し、謝罪会見を開く騒動に至った。高砂親方からも責められて誰も信用できなくなり、誰も知った人のいない所で自殺しようと考えて航空会社に電話しようとしたが、当時の妻(後に離婚)に電話線を引き千切られて止められた[6]

翌5月場所直前、一人横綱の北勝海が現役引退し、横綱空位となる。同5月場所に小錦は再度綱獲りに挑んだが、その騒動によるショックの影響もあったのか9勝6敗に終わり又しても失敗。この5月場所以降成績は徐々に下降、最高でも10勝がやっとで、終盤まで優勝争いに加わる事は無くなった。1993年(平成5年)5月場所で7勝8敗と皆勤負け越しを喫したが、翌7月場所は9勝6敗と勝ち越して6回目の大関角番脱出。しかし9月場所では、蜂窩織炎による高熱のため0勝2敗13休と途中休場。そして同年11月場所、通算7回目の大関角番(当時角番数の最多記録[A 5])を迎えたが6勝9敗、2場所連続で負け越したために、ついに在位39場所で大関の座から陥落してしまう[6]。その大関陥落が決まった同場所13日目の対戦相手は、奇しくも同じハワイ出身の後輩だった当時横綱のであった。のちに曙は「先輩の大関陥落が決まる日に正直当たりたくなかった。とても辛い恩返しです」と語っている。一方小錦本人は「仕方がない。でも、いつかはこういう日が来るだろうと覚悟はしていた」と曙とは全く対照的に淡々とコメントしていた。なお大関の晩年時代は突っ張ろうにも足が出なくなっていたため、威力がなく前に落ちやすいので、相手を捕まえて自分の正面に固定して少しずつ運ぶという取り口になっていた。

小錦が大関時代の1987年11月場所後、横綱・双羽黒は師匠らと衝突の末廃業してしまう。これを機に「原則として『横綱昇進は大関の地位で2場所連続優勝』が絶対条件」となったため[A 6]、上述の関脇時代鯖折りの大怪我もきっかけに「双羽黒は小錦の横綱昇進を阻んだ最大の加害者」と見る好角家も多かった。それでも小錦本人は双羽黒を恨んではおらず[A 7]、逆に「あのケガがあったから大関になれた」とコメントしている。また小錦は、体重が余りに重すぎて大関時代の安定期は短く、仮に横綱になれたとしても地位を長く守れる程の実力があったかは大いに疑問視されており、むしろ「横綱になれなかったからこそ『名大関』として名を残せたのではないか」という意見が一般的である。

尚小錦の10勝以上の場所は32場所と、最高位が大関の力士としては魁皇の35場所、千代大海の33場所に次ぎ、歴代横綱と比しても中位に位置する。優勝3回で何度も「綱獲り」に手をかけるなど、戦後大関の中でも魁皇らと同様「最強大関」の一人に数えられる。しかし膝の負傷以降万全でない場所での大負けがあり、大関時代の勝率では小錦の.637に対して、同時代の霧島の方が大関在位は短い(16場所)ながら.647とわずかに上回っている。また後年、通算1047勝・幕内879勝など大相撲史上1位の記録を塗り替えた魁皇は、大関在位65場所・幕内優勝5回など大多数が小錦の成績を上回っているものの、大関時代の勝率は.615と小錦を下回っている。

大関陥落後[編集]

1994年(平成6年)1月場所、関脇の地位で10勝以上の成績を挙げれば大関特例復帰となったが、初日から8連敗でストレートの負け越し決定、結局2勝13敗に終わり皆勤場所では自己ワーストの成績となった。次の同年3月場所は、1986年9月場所以来7年半ぶりの平幕(東前頭9枚目)に下がったが、8勝7敗と4場所振りに勝ち越しを決めた。その後平幕上位に復活することは何度かあったものの、三役(関脇・小結)以上への復帰は果たせなかった[6]。それでも「三賞候補?そんなのいらないよ。目標は1000万円だよ」と言ったりしていた(1000万円は幕内最高優勝の賞金額)。1995年1月場所9日目の貴闘力戦で水入りの相撲を経験するなど、四つ相撲で持久力のある部分を見せつけることがあった。

それまで大関時代の小錦はどちらかと言えば、兄弟、琴錦ら後進(特に大関候補)に対する憎まれ役を演じ続けていた。しかし大関を陥落してからその後、さらに幕尻近くまで落ちても現役に執着するその姿は、最盛期にも勝る人気を得た。特に同じく大関から陥落していた霧島との平幕対決は、小錦の突っ張りか霧島の投げか目が離せないほどのライバル関係にあり、それは北の湖輪島に似たものがあった。その良きライバルの霧島との幕内成績は、38回対戦して19勝19敗の全くの五分であった。また土俵上だけでなく悩みがあったときには、この2人は励まし合っていたという。今でも霧島とは大の仲良しである。また、ハワイ出身の後輩であり横綱に昇進した曙と武蔵丸は、新弟子時代から小錦を大変尊敬していたそうである。

さらに、舞の海との体重差約200kgの異色対戦も、大きな話題になった。初対決は小錦が前頭9枚目だった1994年3月場所で、小錦が勝利した。その2年後、1996年(平成8年)7月場所の対戦では、舞の海が勝ちながらも膝に小錦の体重がまともに圧し掛かり、大ケガをしてしまった。その後、舞の海は2場所連続休場して平幕から十両に陥落するも、1997年(平成9年)5月場所で舞の海が幕内に復帰した時、ずっと心配していた小錦は自分のことのように喜んだという。[11]尚、舞の海とは12回対戦して5勝7敗と負け越している[12]

前頭2枚目まで復帰した1997年(平成9年)9月場所の11日目横綱貴乃花戦では、その場所全敗(蜂窩織炎による5日間の途中休場分も含む)していたものの、立合いと同時に貴乃花を押し込み、土俵際まで追い詰めた。しかし貴乃花の土俵際からの上手投げに小錦は思わず横転し、惜しくも金星獲得を逃したものの、館内は敗れ去った小錦に万雷の喝采を送っていた。

引退前には怪我のため痛み止め薬を一日10錠も飲んでいたが、これが災いし出血性胃潰瘍を発症、巡業先のホテルで大量に下血。体内の血液を40%も失う危険な状態であったが何とか一命をとりとめた。痛み止めのため発症には気付かず、入院中も厚い脂肪のため外科手術ができない上に、これ以上の投薬は危険と判断され、激痛に耐えながら自然回復による治癒を待つしかない状態だった。なお、この時は風邪による体調不良のため休場と公表していた。

廻しの色は当初は青→水色→黒であったが、後年は青に戻していた。

現役引退[編集]

そして幕尻に近い東前頭14枚目で迎えた1997年11月場所、本人はこの場所限りで勝ち越しても引退することを決め、千秋楽にはハワイにいる家族を呼び寄せる予定でいたという。13日目に琴の若に敗れて負け越しが決まると、取組後に高砂親方(元小結富士錦)の所に報道陣が殺到したため、親方が今場所限りでの小錦の現役引退を示唆してしまう。小錦本人は千秋楽まで土俵に上がる意向だったものの、「死に体で土俵に上がることは許されない」という当時の境川理事長(元横綱佐田の山)の意見[13]により、千秋楽を待たず14日目・三杉里戦の不戦敗を最後に引退することになった[7][14]。元大関の栃東は小錦が千秋楽の土俵に上がった時に花束を渡そうと考えていたことをスポーツ紙に明かしたが前述の理由より実現できなかった。千秋楽の対戦は寺尾との予定で組まれていたが、先述通り境川理事長の「死に体で土俵には上がれない」という理由により、結局同場所千秋楽の寺尾戦は割り返されて幻となってしまった。引退に際して小錦は「相撲人生に全く悔いはない。ハワイから日本に来ていい思い出ができた。相撲をやって本当に良かった」「2日間取れなかったが、ほかの力士に失礼だから。満足しています。ファンの方には、この場を借りて“15年間ありがとう”と言いたい」と語っていた[14]

その後小錦は、1998年(平成10年)5月場所後の引退相撲で寺尾と最後の対戦を申し入れ、心残りだった寺尾も快く承諾。取組では小錦が寺尾を押し出しての勝利となったが、取組後土俵上で小錦と寺尾はがっちりと握手を交わしていた(それ以前にも寺尾は、小錦らと同じ「花のサンパチ組」同士だった北勝海と琴ヶ梅の引退相撲で二人共に、最後の取組相手として指名されて勝負していた)。尚小錦は、大関陥落後も関脇以下の地位で24場所取り続けたが、これは当時の歴代最長記録だった(現在は2001年11月場所に大関から関脇へ転落、2013年3月場所で引退した雅山の68場所)。 現役引退後は、取得していた年寄株を使用して年寄「佐ノ山」[15]を襲名、しばらく高砂部屋付きの親方として相撲協会に残ったが、1998年7月場所を以て短期間で退職した。2007年6月まで、東京新聞夕刊紙上にて「この道」を執筆、横綱昇進問題や南海龍事件など現役時代のエピソードを含めた自分史を自ら語り、今後の進路として音楽プロデューサーの道を歩むことを明かした。

現役中からボランティア活動にも積極的に取り組み、阪神・淡路大震災の復興支援などを行った。1997年には「KONISHIKI基金」を設立し、ハワイの子どもへの就学援助や日本との文化交流に力を注いでいる。横綱にはなれなかったが、その存在感・人気は横綱クラスで、人格者として角界の人気・地位を向上させた。実際に横綱空位が要因となって1992年4月から曙が横綱昇進を果たした1993年2月まで最高位が大関の力士としては唯一となる力士会の会長を務めた[A 8]。また、初めて外国人大関となった小錦の存在が、外国人力士の評価を高める上で大きく役立ったことも高く評価されている。

エピソード[編集]

  • 幕内に昇進した当時、小錦よりは体格が小柄な大錦という力士がおり、平幕時代の対戦時には「大きな小錦と小さな大錦」等と紹介されることもあった(ただし身長は大錦が186cmと小錦より2cm大きい)。
  • 現役時代からそのキャラクターは際立っており、ナショナルアルカリ乾電池のCMに出演する[A 9]などしてTVへの露出は多かった(なお、大関時代に力士のCM出演が禁止されており、それがなければもっと露出は多くなっていたとされている)。
  • 現役時、エアロスミスのアルバム『Big Ones』の裏ジャケットに小錦の取り組み前の姿を正面から撮影した写真が使用され、日本相撲協会から事情を聴取されたことがある。
  • ハワイに帰った際、友人がパソコンで遊んでいたことでパソコンに興味を抱くようになった。エスカレートしたのは、32歳の誕生日に、曙や武蔵丸からノートパソコンをプレゼントされてからだという。
  • かつて着用していた服のサイズは10L。10Lの下着は一般人の体が片足部分にすっぽりと入る大きさで、2017年時点では運動会で10Lサイズの衣類に児童2人が入って競走する小学校もあるという[16]
    • 現役時代、その体格から「小錦は用を足した後、自分でお尻を拭けるのか?」と話題になり、一時は「付け人に尻を拭かせている」という噂がまことしやかに流れた事がある。実際には、一般人のように後ろから手を回して拭く事は出来ないが、前から手を入れる事によって自分で拭いていたという事である。また、飛行機のトイレに入れない場合があったため、搭乗前日から水分を控え、なるべく催さないようにしたが、ある時飛行機の中で大便を我慢できなくなったため、羽織や下着を脱ぎ捨て、パンツ1枚になって無理やり入ったという[6]
  • パリやウィーンへ遠征に行った際には旧い宮殿でレセプションパーティーが行われたが、そうした宮殿にはエレベーターなどないので階段を上らなけれならなかった。ところが小錦の場合は太り過ぎていて1人で階段を登れないので、周囲が小錦の尻を押して階段を上るのを手伝った[17]
  • 1986年5月11日、イギリスのチャールズ皇太子・ダイアナ妃が両国国技館で相撲見物を行った際、大乃国と共に当時の力士代表を務めていた小錦は、着物の上からであったがダイアナ妃に腹を指でつつかれた。この様子を詠んだ当時の川柳が「関取を かつおのように おしてみる」である[18]
  • 藤波辰爾加藤博一と親交があり、藤波の影響で(現役中から)ハワイの青少年育成活動に取り組むようになった。
  • 2002年6月28日、『徹子の部屋』に出演した際は現夫人との結婚が囁かれていたことから「アメリカのETVというワイドショーでは結婚報道を数秒で済ませるが日本では数週間もしつこく報道する。」と批判する一幕もあった[19]
  • 2006年6月23日、元大関・北天佑こと二十山親方が45歳で死去した際、その弔問アロハシャツ姿で現れた。なお、アロハは出身地のハワイの正装であるが、日本では「リゾート着」として着用されることが多いために、「礼儀を欠く」と勘違いするものも多かったが、日本相撲協会退職後ということや、ハワイの正装であるということが伝わったこともあり批判は起きなかった[A 10]
  • 中央競馬の馬券の券種である拡大馬番連勝複式の愛称が「ワイド」に決まった際に、その体型にちなんでCMキャラクターとして採用される。
  • 同郷のプロ野球選手ベニー・アグバヤニ(元千葉ロッテマリーンズ)と親交がある。
  • 2016年7月31日、「昭和の大横綱」と言われた第58代横綱・千代の富士こと九重親方が61歳で病死。翌8月1日、小錦は記者陣に対して「本当に驚いた。偉大な横綱と一緒に相撲が取れて幸せだった」「やっぱり最初の取組(1984年9月場所14日目)で勝った事が一番の想い出。僕の相撲人生が変わったと思う」「今迄有難う、お世話になりましたという感謝しかない」と追悼のコメントを述べていた[20]
  • 男性不妊に悩んでおり、結婚後に睾丸を切開して精子があるかどうか確かめたがなかったという[21]
  • ヴァン・ヘイレンデイヴィッド・リー・ロスが日本で生活していた頃、彼に日本語や日本での生活のいろはを指南していた。また、デイヴの自主制作ショートムービー『外人任侠伝〜東京事変』にも出演している。
  • 稀勢の里が横綱昇進を果たしたことに関しては「稀勢の里の横綱昇進は、基準が甘かったという声も聞くね。プロの目から見ても甘いと思うけど、いいんだよ。今回の昇進を逃したら、いつ日本出身の横綱が生まれるか分からない。横綱稀勢の里はどうしても必要なのさ」と語っている。一方で、多くのモンゴル勢が上位を占める最近の大相撲について「現役力士がテレビに出てタレント扱いされてる。寂しいね。相撲は勝負の世界だから厳しいんだ。土俵で勝てないと稼げない。強くないと何も始まらないよ」と奮起を促した[22]

減量[編集]

相撲協会退職後は度々テレビ番組の企画でダイエットに挑戦したが、減量とリバウンドの繰り返しであった。調子の良い時はまっすぐ歩けるが、体調が悪くなると横ぶれがひどくなり、痛風や糖尿病、ひざの痛みなどで、1か月に1度は入院するようになった。ついに体重が300kgを超え、現役時代に傷めた膝を手術するにも支障がでるばかりか、「このままでは死んでしまう」と思ったため、事務所の社員があらゆるダイエット法を調べた末に胃の縮小手術があることを知り、2006年12月、芸能活動を中止して妻と2人、ハワイに渡った。「会社(芸能事務所KP)のタレントは当時、僕だけ。休んだら誰が社員の給料を払うんだ?」と決心がつかなかったが、妻から「お金がなかったらハワイの家を売ればいい。2人で生きていけば何とかなる。でも今、手術しなきゃ生きることもできなくなるのよ」と後押しを受けて治療に踏み切った。[23]。小錦がハワイに渡ったのは胃の縮小手術に日本の保険が適用されなかったからであったが、手術を受けるには心機能や血糖値を正常にする必要があり、まずは自力でダイエットし、“健康体”にならなければならなかった。1日の食事を5回に少量ずつに分け、1口の食事を2分もかけて食べる練習を行い、小錦は後にこの時について「相撲界で1日2食のドカ食いをしていた僕には本当にきつかった」と述懐している。「これじゃあ、せっかくの食事もおいしくないよ」というぼやきを、妻は笑顔で無視し「はい、ゆっくり食べてね」と付きっきりで見守ってくれた。半年間に渡って食習慣改善を行い講習を受けたが中々手術の許可が下りず、ハワイに渡ってから1年1ヶ月後の2008年2月、ようやく胃の縮小手術を受けた[24][A 11]。術後、急激に痩せたので尿酸値が急上昇して持病の痛風が悪化し、痛みで寝たきりになることもあった[25]。しかし手術の甲斐あって3か月で70kg減量し230kgになった[A 12]。2009年7月には174kgまで減量し[26]、それまでは座って行っていたコンサートでの歌唱も立って行うことが可能になった[27]。さらに、減量によって余剰となった皮膚の切除を決意するものの、脈が1分間に38しかないスポーツ心臓の持ち主だったため、術中術後管理の困難さから手術を承諾する病院捜しに難航するも、結局10時間を費やす大手術によって21kg分を切除したことによって体重は153kgとなり、既製服も着ることができるようになった[28][6]。また、この減量により、複数回に渡る膝の手術も行い、歩行も改善されている。

減量がここまで成功した背景には外科手術のみならず、これまでにない食事制限が関係している。2013年10月15日に都内で行われたオスター『マイブレンダー』の記者発表会に出席した際には「2年くらい食べ方を変えてて、普段は目玉焼き一つにご飯と納豆くらい」と本人が食事量の変化を証言しており、「ほとんど食べ物も置いていない。うちに帰ると刑務所です」とその苛酷さを語った上で「奥さんは世界一の人です」と協力に対する感謝を大いに力説した。[29]

最終目標は130kgに設定している(医師が設定した理想体重は135kg前後)。現在本人は至って健康体であるが、結果としてあまりにも急激な減量に成功したためか、詳細を知らぬ人物から「どこか具合でも悪いのですか?」と心配される声も多いという。後妻との結婚により、長生きをしたいと思ったことが、この減量を支える決意になったと語っている。

  • 2008年3月 … 310kg
  • 2008年6月 … 230kg
  • 2009年7月 … 174kg
  • 2009年末頃 … 153kg

略歴[編集]

  • 1982年7月場所 - 髙砂部屋入門、初土俵。
  • 1983年11月場所 - 新十両。
  • 1984年7月場所 - 新入幕。
  • 1984年9月場所 - 初の金星(隆の里・千代の富士)、初の三賞(殊勲賞、敢闘賞)受賞。
  • 1984年11月場所 - 新三役(小結を飛び越えて関脇に昇進)。
  • 1987年7月場所 - 大関昇進。
  • 1989年11月場所 - 初の幕内最高優勝(14勝1敗)。
  • 1991年11月場所 - 2度目の幕内最高優勝(13勝2敗)。
  • 1992年3月場所 - 4人による優勝争い、千秋楽に2敗同士の大関霧島との相星決戦を寄り倒しで下して3度目の幕内最高優勝(13勝2敗)。
  • 1993年11月場所 - 大関陥落。
  • 1997年11月場所 - 現役引退、年寄佐ノ山を襲名。
  • 1998年5月 - 小錦引退佐ノ山襲名大相撲(断髪式)。
  • 1998年9月 - 日本相撲協会を退職、タレントへ転向。

大相撲時代の成績[編集]

通算成績[編集]

  • 通算成績:733勝498敗95休 勝率.595
  • 幕内成績:649勝476敗89休 勝率.577
  • 大関成績:345勝197敗43休 勝率.637
  • 幕内在位:81場所(当時歴代3位タイ、現在7位)
  • 大関在位:39場所(当時歴代3位、現在6位)
  • 三役在位:12場所(関脇9場所、小結3場所)
  • 連続6場所勝利:75(1991年5月場所~1992年3月場所)
  • 通算(幕内)連続勝ち越し記録:12場所(1986年9月場所~1988年7月場所)
  • 幕内2桁連続勝利記録:6場所(1991年5月場所~1992年3月場所)
  • 幕内12勝以上連続勝利記録:3場所(1991年11月場所~1992年3月場所)
  • 連勝記録(通算):22(1982年7月場所4日目~1983年3月場所10日目・前相撲→三段目時代)
  • 連勝記録(幕内):15(1992年1月場所8日目~1992年3月場所7日目)

各段優勝[編集]

  • 幕内最高優勝:3回(1989年11月場所、1991年11月場所、1992年3月場所)
  • 十両優勝:2回(1984年3月場所、1984年5月場所)
  • 序二段優勝:1回(1982年11月場所)
  • 序ノ口優勝:1回(1982年9月場所)

三賞・金星[編集]

  • 三賞:10回
    • 殊勲賞:4回(1984年9月場所、1986年9月場所、1986年11月場所、1987年1月場所)
    • 敢闘賞:5回(1984年9月場所、1985年5月場所、1985年11月場所、1986年3月場所、1987年5月場所)
    • 技能賞:1回(1986年3月場所)
  • 金星:2個

場所別成績[編集]

小錦八十吉
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1982年
(昭和57年)
x x x (前相撲) 東 序ノ口 #32
優勝
7–0
西 序二段 #56
優勝
7–0
1983年
(昭和58年)
西 三段目 #50
6–1 
西 三段目 #2
6–1 
西 幕下 #28
6–1 
西 幕下 #8
4–3 
東 幕下 #6
6–1 
西 十両 #12
11–4 
1984年
(昭和59年)
東 十両 #3
4–5–6[30] 
西 十両 #10
優勝
13–2
東 十両 #2
優勝
11–4
東 前頭 #11
8–7 
西 前頭 #6
12–3
西 関脇
5–6–4[30] 
1985年
(昭和60年)
西 前頭 #1
6–9 
西 前頭 #3
8–7 
西 小結
12–3
西 関脇
9–6 
東 関脇
休場
0–0–15
西 前頭 #9
11–4
1986年
(昭和61年)
西 小結
10–5 
東 小結
12–3
西 関脇
3–6–6[30] 
東 前頭 #4
休場[A 13]
0–0–15
東 前頭 #4
12–3
西 関脇
10–5
1987年
(昭和62年)
東 関脇
10–5
東 関脇
11–4 
東 関脇
12–3
西 大関
9–6 
西 大関
12–3 
東 大関
8–7 
1988年
(昭和63年)
東 張出大関
13–2 
西 大関
8–7 
西 大関
8–7 
西 大関
8–7 
東 張出大関
3–12 
西 張出大関
10–5[31] 
1989年
(平成元年)
東 張出大関
3–9–3[30] 
西 張出大関
10–5 
西 張出大関
9–6 
西 張出大関
8–7 
西 張出大関
5–10 
西 張出大関
14–1[31] 
1990年
(平成2年)
東 大関
10–5 
東 大関
13–2[A 14] 
東 大関
12–3 
西 大関
10–5 
東 大関
9–6 
西 大関
10–5 
1991年
(平成3年)
西 大関
0–1–14[A 15] 
西 大関
9–6[31] 
東 大関
14–1[A 16] 
東 大関
12–3 
東 大関
11–4 
西 大関
13–2 
1992年
(平成4年)
東 大関
12–3 
東 大関
13–2 
東 大関
9–6 
西 大関
10–5 
西 大関
9–6 
東 大関
0–2–13[30] 
1993年
(平成5年)
西 大関
10–5[31] 
西 大関
9–6 
西 大関
7–8 
西 大関
9–6[31] 
東 張出大関
0–2–13[30] 
東 張出大関
6–9[31] 
1994年
(平成6年)
西 張出関脇
2–13[A 17] 
東 前頭 #9
8–7 
東 前頭 #5
5–10 
東 前頭 #12
8–7 
東 前頭 #10
8–7 
東 前頭 #5
6–9 
1995年
(平成7年)
西 前頭 #8
8–7 
東 前頭 #3
5–10 
西 前頭 #7
5–10 
西 前頭 #13
9–6 
東 前頭 #5
5–10 
西 前頭 #10
8–7 
1996年
(平成8年)
東 前頭 #8
7–8 
西 前頭 #9
6–9 
東 前頭 #14
10–5 
西 前頭 #8
8–7 
東 前頭 #4
4–11 
東 前頭 #9
6–9 
1997年
(平成9年)
東 前頭 #13
8–7 
西 前頭 #10
6–7–2[A 18] 
東 前頭 #14
8–7 
西 前頭 #9
8–7 
西 前頭 #2
0–11–4[A 19] 
東 前頭 #14
引退
5–9–0
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

主な力士(横綱・大関)との幕内対戦成績[編集]

力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数
8 9 旭富士 14 22* 大乃国 15 13
魁皇 1 2 北の湖 1 0 霧島 19 19*
琴風 3 2 隆の里 2(1) 1 貴ノ浪 5 10(1)
貴乃花 7 15 千代の富士 9 20(1) 栃東 0 2
双羽黒 7(1) 9 北天佑 13 17 北勝海 16* 15(1)*
武蔵丸 7 8 武双山 1 2 若嶋津 10 2
若乃花 9(1) 12
  • 他に優勝決定戦巴戦は1990年3月場所)で北勝海に1勝1敗、霧島と旭富士に各1敗がある。

(カッコ内は勝敗数の中に占める不戦勝・不戦敗の数)

主な合い口[編集]

  • 第55代横綱北の湖は当時現役晩年もあって、1984年11月場所初日に1回のみ対戦。小錦が押し出して勝利、これが唯一の取組となった。
  • 第58代横綱千代の富士は、初対戦の1984年9月場所14日目、一方的に押し出して完勝。その後は合口が悪かったが、1989年11月~1990年5月場所まで4連勝した事もあった。
  • 第59代横綱隆の里も初対戦の1984年9月場所11日目、一気に押し出し初の横綱戦でいきなり大金星。通算でも1つの差で勝ち越した。
  • 第60代横綱双羽黒は2つの差で負け越し。大関獲りの1986年5月場所8日目、取り直しの末鯖折りで右膝を大怪我、休場を余儀なくされた。
  • 第61代横綱北勝海は1つの差で勝ち越し。尚1990年3月場所は霧島も含め優勝決定巴戦となったが、1対戦目は勝ったが4対戦目で敗れ、優勝はならなかった。
  • 第62代横綱大乃国も2つの差で勝ち越し。当時は両力士共に「体重200Kg以上の幕内史上最重量対決」としても大きな話題となった。
  • 第63代横綱旭富士は一時14連敗を喫するなど苦手とした。特に1991年5月場所は14連勝しながら本割で旭富士に敗れ、決定戦でも連敗し逆転優勝を許した。
  • 第64代横綱曙、第65代横綱貴乃花、第66代横綱若乃花、第67代武蔵丸は、4力士共に大関時代は合口が良かったが、関脇陥落以降は力関係が逆転して全員負け越している。
  • 先輩大関琴風は、初対戦の1984年9月場所千秋楽に大相撲の末下手投げに敗れ、入幕2場所目の平幕優勝を惜しくも逃した。対戦成績では1つの差で勝ち越し。
  • 先輩大関若嶋津は、共に優勝を争った初対戦の1984年9月場所12日目に寄り切りで勝利。その後も得意とし大きく勝ち越している。
  • 先輩大関北天佑は合口悪く、4つの差で負け越し。但し1987年3月場所8日目、北天佑の左膝を怪我させて痛がるのを察した小錦は、取り直しで北天佑の膝を庇いながら寄り切った。
  • 1984年7月場所の幕内同時昇進だったライバル・大関霧島とは、幕内対戦成績でも19勝19敗と全くの互角だった(他十両時代に1勝、優勝決定巴戦で1敗)。
  • 後輩大関貴ノ浪は、大関時代だった初対戦の1992年3月場所2日目は勝利したものの、その後は苦手とし5つの差で負け越し。
  • のちに後輩大関となる武双山、魁皇、栃東の3力士共、関脇陥落以降に対戦するも、揃って僅差で負け越している。
  • 関脇以下では安芸乃島を大の苦手とし、1988年9月場所の初対戦からいきなり7連敗。自身幕内初優勝時の1989年11月場所で漸く初勝利するも、対戦成績は10勝25敗と大きく負け越し。

ミュージシャンとしての活動[編集]

  • 2010年5月26日、小錦八十吉名義で『ドスコイ・ダンシング』を発売。曲自体は1985年頃の現役力士時代に作ったものであったが、相撲に専念するためお蔵入りになっていたという。

テレビでの活動[編集]

現在は、NHK Eテレの平日6:45-6:55・17:10-17:20に放送される小児向け教育番組『にほんごであそぼ』にも、『コニちゃん』の名で出演している。微笑ましい姿で子供たちからの人気も高い。

その時歴史が動いた』(2006年8月23日放送)では、故郷ハワイの英雄カラカウア王を演じた。

その他の活動[編集]

ドラマ[編集]

映画[編集]

ネットムービー[編集]

  • 外人任侠伝〜東京事変 - 兄貴役[32]

アニメ[編集]

吹き替え[編集]

  • X-ファイル ディプスロート役(スカパーフェクTV!版)

ラジオ[編集]

テレビ[編集]

CM[編集]

著書[編集]

株式会社KP所属タレント[編集]

注記[編集]

  1. ^ 大相撲時代にはハワイ人の新生児(男児)に四股名をそっくり命名したこともあるが、問題にはならなかった。
  2. ^ 後年ギネスブックの相撲の項目で「最も体重の重いプロスポーツ選手」と紹介された。
  3. ^ この場所で小錦に一方的に敗れたことに発奮した千代の富士は稽古に励んで低迷を脱しており、千代の富士が優勝31回の大横綱となる上で小錦が与えた衝撃は大きな役割を果たしている。その後の取り組みでは千代の富士の躍動感ある相撲にまるでついていけていない場面が目立ち、最終的な対戦成績は小錦の9勝20敗と大きく負け越し、横綱との実力差を見せつけられた恰好となった。特に昭和60年春場所に華麗な下手ひねりで敗れた際は悔しさを露わにしていた。
  4. ^ 千秋楽で大関琴風に敗れたため13勝2敗の平幕多賀竜が優勝。
  5. ^ 現在大関角番数の最多記録は千代大海の通算14回。
  6. ^ 平成時代以降、第63代横綱・旭富士から第70代横綱・日馬富士まで8力士全員「大関で2場所連続優勝」で横綱に昇進した。それ以降はやや基準が緩く成った事も有り、第71代横綱・鶴竜は優勝同点(14勝1敗)・優勝(14勝1敗)と平成初の大関2連覇ならずで横綱となった。しかも鶴竜の場合、年6場所制定着以降唯一「直前3場所前が1ケタ白星でなおかつ連覇無し」でありながらも昇進している。その後第72代横綱・稀勢の里も優勝次点(12勝3敗)・優勝(14勝1敗)で昇進を果たした。
  7. ^ 現役時代の双羽黒は頻繁に高砂部屋で出稽古を行っており、さらに小錦と双羽黒は同じ「花のサンパチ組」で互いに稽古相手を務め合う仲であった。その双羽黒は廃業から10ヶ月後に死去した高砂の葬儀に「事件の際迷惑をかけ、責任を感じている」という理由で出席していた。
  8. ^ 大関として同会長をつとめた例は他に初代会長の玉錦三右エ門がいる。
  9. ^ 特典としてオリジナルテレホンカード5種類が作られ、1987年7月1日から8月31日まで抽選で毎週3000人にプレゼントされた。
  10. ^ ちなみにハワイでの葬儀の習慣は男性はアロハ、女性はムームーが一般的で、黒い喪服は皆無ではないがそれほど使われない。
  11. ^ メタボリックシンドロームの原因となる内臓脂肪の量は少なかったために、手術そのものは平均的な所要時間よりはるかに短く終わった。
  12. ^ NTVで2008年6月に放送した『Touch! eco 2008 明日のために…55の挑戦?スペシャル』内で、300kg台の時には腹部がじゃまになり自分で靴を履くことができず他の人に履かせてもらっていたが230kgになり自分で靴を履けるようになった様子が放送された。
  13. ^ 公傷・全休
  14. ^ 北勝海霧島と優勝決定戦
  15. ^ 初日不戦敗・休場
  16. ^ 旭富士と優勝決定戦
  17. ^ 関脇陥落
  18. ^ 初日より休場・3日目から途中出場
  19. ^ 4日目より途中休場・9日目から再出場

脚注[編集]

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  1. ^ 知ったら笑う関取の異名 マイナビニュース 2013/02/24
  2. ^ 角界「異名」列伝 ウルフの時代 時事ドットコム
  3. ^ a b c d ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p18
  4. ^ 小錦八十吉の『ドスコイ・ダンシング』2010年5月27日 KONISHIKI 公式ブログ
  5. ^ 皆さん、ありがとう・・・2010年5月29日 Konishikiオフィシャルサイト Konishiki日記
  6. ^ a b c d e f g h i j k l 北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)148ページから150ページ
  7. ^ a b c d e ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p28-29
  8. ^ a b KONISHIKIから見た武蔵丸 武蔵丸光洋公式ウェブサイト
  9. ^ 最初の一番では北尾は立ち合い左に変わり、突っ張り合いから突き勝った小錦が右ハズで出てくると、土俵際、左上手投げを見せたものの、左足が大きく土俵を割った。軍配は小錦に上がったが「北尾の左足が出るのと小錦の左足が返って甲が付くのが同時」とみて取り直しとなった。勝負規則によれば正しい判定ではあるが、攻めているときに足の甲が付いている場合は見逃されるケースが非常に多く、小錦の勝ちと判定されても仕方がないケースであった。
    『大相撲ジャーナル』2017年6月号46頁
  10. ^ ベースボールマガジン社『大相撲戦後70年史』19ページ
  11. ^ 後の2011年3月8日にその舞の海が関西プレスクラブの招きで大阪市内のホテルで講演した際にはこの場所の小錦との対戦を言及しており、怪我を乗り越えて復帰した祝儀として小錦から勝ちを譲られたのだろうと断定したという趣旨の発言があった。
  12. ^ 舞の道(元小結・舞の海と大相撲に関するサイト)-舞の部屋>> 対戦成績表 >> か行より
  13. ^ 舞の海秀平氏、都知事選に苦言「担ぐ方も担ぐ方だし、担がれる方も担がれる方」 ZAKZAK 2014.01.22
    元小結・舞の海秀平はそれについて「千秋楽前に引退届を提出した」と真相を語っている。
  14. ^ a b 1997年11月23付日刊スポーツ紙面
  15. ^ 後年になって年寄名跡の取得に際して2億円もの資金提供を受けたことを本人が明かしており『解禁!暴露ナイト』2013年1月24日放送分でその詳細が語られた。
  16. ^ 毎日新聞2017年10月11日 東京朝刊
  17. ^ 『大相撲ジャーナル』2017年8月号p116-117
  18. ^ 『大相撲ジャーナル』2017年5月号93ページ
  19. ^ 徹子の部屋辞典 Archived 2014年1月4日, at the Wayback Machine. 『徹子の部屋』のファンサイトに収録されたKONISHIKI出演時の会話
  20. ^ 小錦 千代の富士との最初の一番で「僕の相撲人生が変わった」スポニチ 2016年8月2日記事
  21. ^ 男性不妊の治療、できること少ないからこそ 小錦さん 朝日新聞DIGITAL 2017年1月11日16時38分
  22. ^ 朝日新聞2017年2月10日「耕論」
  23. ^ [元大関 小錦八十吉さん]150キロの減量(1)妻の言葉で仕事中断 yomiDr. 2010年5月6日
  24. ^ [元大関 小錦八十吉さん]150キロの減量(2)少量の食事を1日5回 yomiDr. 2010年5月13日
  25. ^ [元大関 小錦八十吉さん]150キロの減量(3)胃の縮小手術で痛風悪化 yomiDr. 2010年5月20日
  26. ^ 世界変わる?KONISHIKI 129キロ減量スポーツニッポン2009年7月24日、2009年8月4日閲覧
  27. ^ KONISHIKI初めて立って歌った!スポーツニッポン2009年7月27日、2009年8月4日閲覧
  28. ^ [元大関 小錦八十吉さん]150キロの減量(4)支え続けた妻に感謝 yomiDr. 2010年5月27日
  29. ^ KONISHIKIが150キロ減量成功 食事制限中で「刑務所みたい」 ORICONSTYLE 2013年10月15日 12時39分
  30. ^ a b c d e f 途中休場
  31. ^ a b c d e f 大関角番(全7回)
  32. ^ ヴァン・ヘイレンのデイヴィッド・リー・ロスが主役を演じる、日本を舞台にしたショート・フィルム『外人任侠伝〜東京事変』が公開 amass 2013年5月23日
  33. ^ ドラえもん のび太とロボット王国”. メディア芸術データベース. 2016年10月30日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]