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小笠原尚清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
小笠原 尚清
時代 室町時代
生誕 寛正6年(1465年[注釈 1]または文明6年(1474年[注釈 2]
死没 文亀2年3月22日1502年4月28日
別名 又六(通称)、宗仁・宗養(法名)
官位 民部少輔
幕府 室町幕府
主君 足利将軍家
氏族 京都小笠原氏
父母 父:小笠原政清、母:不詳
兄弟 六郎兵部少輔某[注釈 3][1]、南陽院殿(北条早雲正室[1]
稙盛
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小笠原 尚清(おがさわら ひさきよ)は、戦国時代室町幕府家臣。武家故実家。

生涯

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室町幕府幕臣で奉公衆小笠原政清の子。諱の尚の字は足利義尚の一字を拝領したものである[2]

延徳元年12月14日(1490年1月4日)、16歳で細川政元主催の犬追物に検見[注釈 4]として参加。父の政清(法名:宗信)が16歳で検見を勤めた旧例に倣ったという[3]

文亀2年(1502年)3月22日死去[4]、享年38[5][注釈 5]。「時元記」の死去当日の記録によれば、死去4、5日前に「武家御庭」(将軍御所[7])で一寸程の枯れ木を踏み抜き発熱し、20日に症状が重くなり22日に死去、破傷風であったという[4]。また、十日程後の「大乗院寺社雑事記」の記録によれば、「細川屋形の内」(細川政元邸[7])において鷹飼の御用のため上意[注釈 6]により鳥の子[注釈 7]を取るために木に登ったところ、木から落ちて死去した[5]ともされる。

京都小笠原氏は幕府の的始めや犬追物を差配する立場にあり、同家の伝える武家故実は当時の武家社会で規範とされていた[8]。父の政清も将軍の「弓馬師範」であり[9]、尚清はその嫡子であったことから、大宮時元は「彼の一流の口伝断絶か。もってのほかの儀也。(中略)希代の事也。」[4]と嘆いている。

尚清没後、同年に生まれた子の稙盛が後を継いだ[7]。幼少の頃から政清・尚清父子に故実の指導を受けていた細川高国は、足利義稙の命により政清の日記と小笠原家の家伝を一時的に預かり、尚清遺児の稙盛を弟子とした[9]

著書

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脚注

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注釈

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  1. ^ 享年からの逆算。
  2. ^ 延徳元年(1489年)に16歳」からの逆算。
  3. ^ 小笠原元長(政清の伯父)の養子
  4. ^ けんみ。射手の射方、矢の中り外れ、馬の扱い等の判定役。
  5. ^ 前述の通り延徳元年に16歳とすれば、享年38は誤りとなる[6]
  6. ^ 当時の将軍は足利義澄
  7. ^ 鳥の卵または雛のこと。

出典

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  1. ^ a b 水野 2005, p. 3.
  2. ^ 「阿波小笠原系図」、『諸家系図纂
  3. ^ 亀泉集証延徳元年十二月十四日条」『蔭凉軒日録』 3巻、史籍刊行会、1954年、1633頁。doi:10.11501/2972280https://dl.ndl.go.jp/pid/2972280/1/2732024年1月28日閲覧。「今日右京兆有犬追物会。検見事小笠原宗信息可勤之。十六歳也。宗信十六歳時勤之以旧例望之也。」 
  4. ^ a b c 「時元記」文亀2年3月22日条.
  5. ^ a b 「大乗院寺社雑事記」文亀2年4月3日条.
  6. ^ 武田 2000, p. 20.
  7. ^ a b c 水野 2005, p. 5.
  8. ^ 二木 1985.
  9. ^ a b 大坪 2018, p. 122.

参考文献

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  • 時元記」文亀2年3月22日条”. 大日本史料総合データベース. 2021年3月15日閲覧。
  • 大乗院寺社雑事記」文亀2年4月3日条”. 大日本史料総合データベース. 2021年3月15日閲覧。
  • 武田信也「武家故実の地方展開に関する一考察(1):小笠原家の豊後下向とその契機」『大分縣地方史』第178号、大分県地方史研究会、2000年8月、1-22頁、2021年6月1日閲覧 
  • 水野哲雄「室町幕府武家故実家京都小笠原氏の展開」『九州史学』第142号、九州史学研究会、2005年8月、1-24頁、CRID 1520009407035628032 
  • 二木謙一「「室町幕府弓馬故実家小笠原氏の成立」」『『中世武家儀礼の研究』』吉川弘文館、1985年。 
  • 大坪舞「近衞前久が継承した鷹の言説 : 『鷹百首』と『皇鷹記』の引用書目の検討を通して」『鷹・鷹場・環境研究』第2巻、九州大学基幹教育院、2018年3月20日、116-126頁、doi:10.15017/1928649ISSN 2432-85022021年3月28日閲覧