小笠原信喜

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小笠原 信喜(おがさわら のぶよし、1718年享保3年) - 1791年5月15日寛政3年4月13日))は、江戸時代中期の旗本

人物[編集]

紀州藩士・大井政周の子で、紀州藩士から幕臣に転じた信盛養子となる。通称は三次郎。妻は島田政之の娘、後妻は旗本大岡忠利の娘(大岡忠光の姉妹)。子に信賢、信成、娘(山口直良の妻)、娘(中坊広看の妻)、娘(花房正応の妻、後に有馬則明の妻)、娘(戸田忠皎婚約者、後に駒井信貫の妻)、養女(大岡忠喜の娘、小笠原政恒の妻)がいる。

1734年享保19年)、養父の遺領である安房国安房郡平郡800石を相続し、小普請に列する。1735年4月11日(享保20年3月19日)、将軍・徳川吉宗に拝謁する。1737年元文2年)、江戸城西の丸の小納戸に任じられ、1738年(元文3年)には西の丸の小姓に移り、のち吉宗の鷹狩に供奉し、1740年(元文5年)に従五位下、若狭守に叙任される。1745年延享2年)本丸に勤仕し、1747年3月25日(延享4年2月15日)には小姓の組頭番頭格となり、安房国長狭郡上総国天羽郡に1200石を加増される。1751年9月7日宝暦元年(7月18日)より御側御用取次に任じられ、1760年(宝暦10年)徳川家重の将軍辞職に伴い二の丸に移る。

1761年(宝暦11年)、家重の逝去により本丸に復帰し、1775年3月15日安永4年2月14日)に任務を辞し菊間の広縁に移り、のち西の丸の御側となり、諸事を執啓する。1777年(安永6年)、安房郡・平郡に1000石を加増される。1779年(安永8年)、将軍継承予定者であった徳川家基が夭逝し、本丸に移る。1781年天明元年)に西の丸に移り、諸事を執啓する。1786年(天明5年)、安房郡・平郡と上野国甘楽郡に2000石を加増される。1787年(天明6年)、将軍・徳川家治の50歳の祝賀において伽羅1箱を恩賜され、同年本丸に復帰し、御側御用取次に再任され諸事を執啓した。また同年に急逝した家治遺品の美濃兼宣の日本刀を賜る。1788年(天明7年)、安房郡・平郡・上野国新田郡勢多郡に2000石を加増される。1789年(天明8年)、老体ながら将軍鷹狩に供奉し、杖の使用を許される。1789年(寛政元年)、徳川家斉の女子生誕の蟇目役を務め、時服6領・白銀50枚を賜る。1791年(寛政3年)、享年74にて没する。

法名は日省。家督は次男の信成が相続した。

参考文献[編集]