小畑達夫

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小畑 達夫(おばた たつお、1907年7月7日 - 1933年12月24日、満26歳没)は、日本社会運動家である。特高のスパイの容疑をかけられ、査問を受けていた最中に死亡した(日本共産党スパイ査問事件)。

経歴[編集]

1907年、秋田県北秋田郡二井田村(現大館市)に教員の長男として生まれた。母を幼少時に亡くし、父は小学校5年生のときに死亡、継母イクに育てられた。大館中学に進学。叔父に大杉栄の弟子がいて、影響を受け在学中から公然と天皇制を批判していた。同級の種市健らと社会主義研究会を組織し、地域の文化人や学生を集めて映画研究会を開催した。1925年3月、「野犬を食ったのを理由に[1]」中学4年で退学処分。

1929年、上京し郵便局に就職、中央、本所、浅草の各局に勤務[2]。大館中学の1年上級の黒沢敏雄のすすめで、日本労働組合全国協議会(全協)傘下の日本通信労働組合に加盟、組織部員となった。1931年同労組の常任委員に就任[3]。同年6~7月、万世橋警察署に検挙され、40日間拘留で釈放された。

1932年日本共産党に入党[4]。このころ、帰郷して種市ら大館中学時代の社会主義研究会のメンバーを手掛かりに全協秋田地区協議会を組織した。1933年5月同党中央委員。同年9月、財政担当になり、10月に財政部長。

同年12月23日、警察に内通したスパイであるとして、大泉兼蔵とともに東京府東京市渋谷区幡ヶ谷の同党アジトで査問を受け、同24日午後1時過ぎ急死した。遺体はアジトの床下に埋められ、1934年1月16日警察の捜査により発見された(詳しくは日本共産党スパイ査問事件を参照)。実弟大川俊男[5]が遺体を引き取り、故郷の友人に当てた手紙に「兄は裏切り者ではなかった」と記した。

死亡直後の同党中央委員会で、スパイであることの基本的事実は明白として大泉兼蔵とともに除名処分にされ、翌12月24日付同党機関紙「赤旗」号外で発表された。戦後の研究では、スパイであったかどうかわからないという説[6]や、スパイでなかったという説[7]も出ているが、日本共産党は一貫してスパイであったとしている。

継母のイクが後に東京に住んだ折りに引き取って育てた少年が成長して歌手になったのが小畑実であり、彼は1953年大館市に、かつて世話になったイクとその子である小畑達夫の墓を建てた。[8]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 栗木1997
  2. ^ 袴田里見は、1939年7月25日の公判調書によると、小畑は「三等郵便局(戦後の特定郵便局に相当する)の事務員」だったと述べたとされる。
  3. ^ 『日本共産党の七十年』上巻p.108によると、全協日本通信労働組合中央委員を務めていた。
  4. ^ 入党時期を、倉田1994は「1932年秋」、栗木1997は「1932年4月」としている。
  5. ^ 大川は後に人民戦線事件に連座し逮捕された。
  6. ^ 倉田1994
  7. ^ 栗木1997
  8. ^ 「【北に消えたテナー】永田絃次郎の生涯(1)日本編」産経新聞、2010年6月20日