小柳篤二
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小柳 篤二(おやなぎ[注 1] とくじ、1883年〈明治16年〉8月1日 - 1985年〈昭和60年〉12月23日)は、日本のドイツ文学者。元東京高等学校独語主任教授、元早稲田大学教授。日出学園名誉園長。
略歴
[編集]新潟県新潟区学校町通(現 新潟市中央区学校町通)出身[3]。1903年(明治36年)3月に新潟中学校を卒業[3]、9月に第一高等学校大学予科理科に入学するも、病気で中退[3][4][注 2]。
新潟中学校の5年先輩の櫻井天壇の所によく遊びに行き、ゲーテやシラーの話を聞いたり、ドイツ語の詩を教えられたりしたことがきっかけで、ドイツ語の道に入ろうと思うようになる[3][6]。
1909年(明治42年)3月に東京外国語学校独語学科を卒業[3][7]、1912年(明治45年)に東京帝国大学文科大学文学科選科を修了[3]。
東京府立第一中学校、東京外国語学校、東京陸軍幼年学校、東京高等学校、早稲田大学、千葉大学、青山学院大学、武蔵高等学校、日出学園などで教鞭を執ったのち[3][6][7][8][注 3][注 4]、1954年(昭和29年)に日出学園園長に就任[11][12]。
1985年(昭和60年)12月23日午前0時5分に東京都多摩市和田の特別養護老人ホーム「和光園」で老衰のため死去、102歳没。告別式は東京都港区六本木の鳥居坂教会で執り行われた[13]。
学生のドイツ語の力が増すことだけを考え、学生にドイツ語の文法や語法を、地味に職人風に教え叩き込んだ[14][15][注 5]。
栄典・表彰
[編集]- 1940年(昭和15年)11月10日 - 紀元二千六百年祝典記念章[17]
- 1941年(昭和16年) 9月 8日 - 従四位[18]
- 1966年(昭和41年) - ドイツ語学文学振興会感謝状[19]
- 1967年(昭和42年)11月 3日 - 勲三等旭日中綬章[20]
主な教え子
[編集]- 久保栄
- 千田是也
- 新庄嘉章
- 清水幾太郎
- 山本達郎
- 糸川英夫
- 永原慶二
- 楊名時
- 北村精一 - 医師、皮膚科学者、第3代長崎大学学長、長崎大学名誉教授。
- 松田勝一 - 医師、薬理学者、第9代新潟医科大学学長、第4代新潟大学医学部学部長、元新潟医療技術専門学校校長、新潟大学名誉教授、新潟薬科大学名誉学長、東京帝国大学空手部創設者。
- 松宮克也 - 評論家、元NHK解説委員。
著作物
[編集]著書
[編集]- 『文法本位 獨文和譯法』大学書林、1935年。
- 『理科獨逸文法讀本』大学書林、1939年。
- 『獨逸語の友』大学書林、1949年。
- 『獨逸語の門』大学書林、1949年。
- 『基準ドイツ文法讀本』郁文堂、1950年。
- 『英語對照 獨逸語入門』第三書房、1950年。
- 『訳読のための独乙文法 独文和訳の実際』大学書林、1951年。
- 『独文和訳の根底』大学書林、1951年。
- 『独文和訳問題集』大学書林〈大学書林語学文庫 507〉、1958年。
- 『新しい 独文解釈法』大学書林、1960年。
- 『随筆 越後』小柳篤二(私家版)、1975年。
- 『随筆 越後(続)』小柳篤二(私家版)、1976年。
- 『長い道 白寿 傘寿 金婚』小柳芳枝[共著]、(私家版)、1981年。
編書
[編集]- 『獨逸時文讀本』日獨書院、1924年。
- 『紀行文集』日獨書院、1926年。
- 『獨逸風土記』日獨書院、1926年。
- 『獨逸風俗誌』日獨書院、1926年。
- 『獨逸今昔物語』日獨書院、1926年。
- 『世界小景』日獨書院、1927年。
- 『獨逸趣味讀本』日獨書院、1927年。
- 『獨逸文法讀本』日獨書院、1927年。
- 『自然科學讀本』日獨書院、1928年。
- 『實用獨逸讀本』日獨書院、1929年。
- 『趣味の獨語入門』日獨書院、1929年。
- 『獨逸の技術』大学書林、1938年。
- 『教養ドイツ読本』大学書林、1952年。
- 『対英ドイツ文典』大学書林、1952年。
訳註書
[編集]- 『獨逸日常生活』リチャード・クローン[著]、日獨書院〈獨逸文化叢書 第1編〉、1923年。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 「小柳」の読み方は「おやなぎ」である[1]。「こやなぎ」と呼ばれると渋い顔をして機嫌が悪くなる[2]。
- ^ 生まれつき体が弱かった。新潟中学校では強い体を作るため野球部に入り、4年先輩の建川美次に鍛えてもらった[5][6]。
- ^ 1912年(大正元年)8月に東京府立第一中学校教諭に就任、1925年(大正14年)4月に東京高等学校教授に就任、1941年(昭和16年)8月に同校を依願退官、1948年(昭和23年)4月に早稲田大学教授に就任、1954年(昭和29年)3月に同大学を退職[9]。
- ^ 第一早稲田高等学院では約20年間、新潟中学校の3年先輩の会津八一が同僚であった[3][10]。
- ^ 予習をしてこなかった学生には厳しく叱った[16]。
出典
[編集]- ^ 『随筆 越後』57頁。
- ^ 『八十年の回想 尋中・一中・日比谷高校』208頁。『東京府立第一中学校 〈日比谷高校の前身〉』71頁。
- ^ a b c d e f g h 『青山同窓会會報』第28号、4面。
- ^ 『随筆 越後』51頁。『青春の森 新潟高等学校編』26-27頁。
- ^ 『青山同窓会會報』第35号、4面。
- ^ a b c 『青山同窓会會報』第16号、4面。
- ^ a b 『東京外国語大学史 独立百周年(建学百二十六年)記念』534頁。
- ^ 『早稲田大学百年史 別巻I』157頁。『早稲田大学百年史 第四巻』940頁。
- ^ 『第十八版 人事興信錄 上』こ48頁。
- ^ 『随筆 越後』37頁。
- ^ 『越佐人物誌 上巻』225頁。『思い出の七十年』149頁。
- ^ 日出学園学園史 | 日出学園同窓会
- ^ 『新潟日報』1985年12月25日付朝刊、19面。
- ^ 『もうひとつの新劇史 千田是也自伝』54頁。『私の人生論 9』187頁。『清水幾太郎著作集 6』『清水幾太郎著作集 16』
- ^ 『日本經濟新聞』1974年11月17日付朝刊、24面。『私の履歴書 文化人 19』335頁。
- ^ 『青春風土記 旧制高校物語 4』302頁。
- ^ 「辭令二」『官報』第4462号付録、1頁、内閣印刷局、1941年11月21日。
- ^ 「敍任及辭令」『官報』第4403号、267頁、内閣印刷局、1941年9月9日。
- ^ 顕彰 | 公益財団法人ドイツ語学文学振興会
- ^ 「叙位・叙勲」『官報』第12267号、10頁、大蔵省印刷局、1967年11月4日。
参考文献
[編集]- 『随筆 越後』小柳篤二[著]、小柳篤二(私家版)、1975年。
- 『青春の森 新潟高等学校編』毎日新聞新潟支局[編]、毎日新聞新潟支局、1982年。
- 「八十年の回想 (PDF) 」『青山同窓会會報』第16号、4面、小柳篤二[著]、青山同窓会、1973年。
- 「小柳篤二先輩をお訪ねして (PDF) 」『青山同窓会會報』第28号、4面、小林智明[著]、青山同窓会、1979年。
- 「小柳篤二氏自伝のこと (PDF) 」『青山同窓会會報』第35号、4面、桝潟昭夫[著]、青山同窓会、1982年。
- 「小柳篤二」『越佐人物誌 上巻』225頁、牧田利平[編]、野島出版、1972年。
- 「小柳篤二」『第十八版 人事興信錄 上』こ48頁、人事興信所[編]、人事興信所、1955年。
- 「小柳篤二氏」『新潟日報』1985年12月25日付朝刊、19面、新潟日報社、1985年。
- 『もうひとつの新劇史 千田是也自伝』千田是也[著]、筑摩書房、1975年。
- 「私の読書と人生」『私の人生論 9』149-244頁、清水幾太郎[著]、日本ブックエース、日本図書センター、2010年。
- 「私の讀書と人生」『清水幾太郎著作集 6』清水幾太郎[著]、清水禮子[編]、講談社、1992年。
- 「昨日の旅」『清水幾太郎著作集 16』清水幾太郎[著]、清水禮子[編]、講談社、1993年。
- 「私の履歴書 糸川英夫 ⑦」『日本經濟新聞』1974年11月17日付朝刊、24面、日本経済新聞社、1974年。
- 「糸川英夫」『私の履歴書 文化人 19』315-392頁、糸川英夫[著]、日本経済新聞社、1984年。
- 『思い出の七十年』原田三夫[著]、誠文堂新光社、1966年。
- 『八十年の回想 尋中・一中・日比谷高校』如蘭会、1958年。
- 『東京府立第一中学校 〈日比谷高校の前身〉 エリート校の現代に生きる英才教育と遊びの進化』須藤直勝[著]、日本図書刊行会、近代文藝社、1994年。
- 「東京高等学校」『青春風土記 旧制高校物語 4』257-309頁、中野雅就[著]、週刊朝日[編]、朝日新聞社、1979年。
- 『東京外国語大学史 独立百周年(建学百二十六年)記念 (PDF) 』東京外国語大学史編纂委員会[編]、東京外国語大学、1999年。
- 『早稲田大学百年史 別巻I』早稲田大学大学史編集所[編]、早稲田大学出版部、1990年。
- 『早稲田大学百年史 第四巻』早稲田大学大学史編集所[編]、早稲田大学出版部、1992年。
関連文献
[編集]- 「わが得意も失意も他山の石として」『生体の科学』第22巻第4号、187-192頁、松田勝一[著]、金原一郎記念医学医療振興財団、医学書院、1971年。