小松祭り

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
三嶋神社・壱の鳥居と本殿前石段
小松祭り・だんじりと御神輿の練り
小松祭り・三嶋神社の「石段昇降」

小松祭りとは、愛媛県西条市の秋祭りのうち、平成の大合併以前の旧小松町にある「三嶋神社」で行われれている祭礼である。

特徴は、他方に「曳(ひ)き屋台」がある中で、全国的にも独特で他に類を見ない「舁(か)き屋台」が奉納される点である。

概要[編集]

東隣り位置する旧西条市にあって、ダンジリ祭りの真骨頂ともいえる「伊曾乃神社例祭」と同様に、西条藩と共に城下町として小松藩[注釈 1]が治めていた時代から、この地でにおいても、ダンジリ屋台の奉納が行われて来たのである。なお、祭りの確証としては、記載された最古の文献は江戸時代も後半に入った宝暦年間初頭(1760年代)のものである。従って、発祥の時期や場所は勿論のこと、素朴と思われる屋台の原型など文献以前のことについては、手掛かりが現在何一つ在在しない以上、下手に推論を語ることは避けたい。


ちなみに、有名な「高山祭り」であっても、今に残る最も古い文献としては、上記と同時期に当たる享保元年(1716年)のものである。また、高山祭りにおいても、「山車(だし)」や「曳山」(ひきやま)」のことを、地元では「屋台」と呼ぶそうである。ここでよく言う「ダンジリ」とは、山車の形体を示す西日本特有の名称であるが、祭り関係者の間ではダンジリとは決して呼ばず、前述の「高山祭り」と同様に「屋台」としか呼ばない。

又、「例祭」というのは、神社によっては「大祭り」とも呼ばれ、神社で行われる祭祀のうちで年に一度の最も重要とされるものである。ところで、この2つの呼び名を重ねた「例大祭」と言う言葉はよく目にすることがよくあるが、これは決して正式なものではなく、周囲に重厚感や盛大さをアピールしようとして氏子衆が敢えて繋ぎ合わせた俗称である。

『衰退期からの復活』 時は昭和の中期1960年代になると、舁き夫不足によってと屋台を手放さざるをえない羽目に陥り、屋台数が著しく減少して衰退の憂き目をみた時期が20年余りも長々と続き、その後半の1972年からの10年間は運行屋台が「岡村」1台のみという非常に寂しい有様であった。その窮地から1982年舁の東常盤新規参入でようやく抜け出し、それをきっかけにその後2010年頃にかけて、この数年前から続いていた近隣の「伊曾乃地区」と「石岡地区」の猛烈な屋台新調ブームの影響か、ここ小松でも屋台の新調やら中古購入が毎年のように驚異的な勢いで続き、それがそこまでは留まらず、まだ更に、中古2階屋台を売り払い3階屋台を新調して、愛着の強いマイ屋台に持ち替えるというフィーバー振りが各所で繰りかえされたのである。これでほぼ倍増した屋台数によって運行エリアは拡大され、祭り自体も往年を遥かに超える賑わいとなったのである。そして、まだまだ年毎に祭りが盛り上がるにつれ、先に西条祭りで数年前から始められていた本祭り前日の夕刻から始まる「宵祭り」と称する前夜祭が、見た目には本番と何ひとつ変わらぬ光景で行われるようになり、これで祭りはますます隆盛の極みを見せるに至ったのである。

『現状紹介』この祭りは、初日16日夕刻から、小松小学校グランドで小松総勢屋台に石根地区の大郷屋台が加わった「祭り屋台舁きくらべ」が繰り広げられ、更に「見所」は、翌日の17日夕刻から神社境内の玉垣内外に勢ぞろいした12台の屋台による「宮入り」である。この祭事でとりわけ注目されるのは、他所ではまずお目に掛かれない「石段昇降」である。これが始められたのは、西条祭りで「川入り」をやり始めたその翌年あたる終戦まもない昭和25年(1950年)のことで、壱番屋台によって当神社初の試みが挙行されたのである。そしてその翌年からは、沈滞期に僅か3ヶ年の中断を挟んで連綿と長きにわたって続けられており、この「石段昇降」は、初っぱなから30年余りにわたり、ずっといつも壱番屋台の専売特許的なお家芸であった。その後、祭りが復活して各屋台がかなり舁き慣れて来た90年代中期からは、壱番屋台が舁き降ろし石段から離れた後、その他の屋台の中から、年に1~2台が代わるがわる行うようになって来ている。そんなことで、祭りはそのうち境内の熱気もみるみる高まり、「壱の鳥居」を揺るがすかのようなの練りが何度もくり返され、最高潮を迎えるのである。このあまたの提灯明かりに際立つ屋台と、豪快に調子よく打ち鳴らす(かね)太鼓の音(ね)が、見事にコラボした《夜祭り》の風情は、祭り好きにはどうにもこたられないご馳走であろう。その後、御神與が渡御を終え無事に御宮に入るのを見届けると、神事の「宮入り」はここで打ち切られ、すべての屋台は神社を後にするのだが、まだ尚それから、それぞれの屋台が22時の祭り終了まで各所で「後夜祭」と称して、極限ぎりぎりまで我を忘れるが如く屋台運行に汗を流すのである。

ここで『余談』ではあるが、「南川」は高鴨神社が氏神であり、過去を見直しても屋台を保有していたという事実は確認できない。ただし終戦の数年後、西条から組み立てもままならない廃棄が決まっていた超古い屋台を、当時の若者たち数人が買って来たのだが、その後厳冬期に、先ほど買って来たと述べた者たちも含まれる消防団員たちが、集会のたびに代わるがわるに少しずつ焚き火につぎ込むうちに、すべてを灰にしてしまったという話が残っている。ということで、この屋台は組めもしなかったし、無論運行したこともないままに消えて行ったのである。これとあまりにも似た話が「新宮」でも起きていたのである。戦後の先刻の話と同じ時期にまったく同じように西条から古屋台を若者たち数人が勝手に買ってき来たのだが、地区の幹部からは認められず、地区の人たちからの支援もまったく望めない中で、当時の若者たちの経済力では到底運営できず、遂に3年ほどで頓挫してしまったということだが、後には、その頃の隅(すま)提灯も付いていない白黒写真が残ったということであった。又、「一本松」は「新屋敷」と同様に一之宮神社が氏神であるが、、今とは違ってその当時は他の地区以上に狭い道路ばかりで、自分の地区自体が屋台運行には適さないことも有り、過去に屋台を保有していたという事実はない。

これらとは真逆の話であるが、それは現在では他県の漁師町の祭礼でしか滅多に見ることのない「舟屋台」(舟に似せた台輪に小型の屋形を載せた舁き屋台」を新屋敷が明治末期まで保有していたいう史実である。今でも一之宮神社本殿の壁面には、奉納された往時の姿を偲ばせる絵画が寂然と掛けられている。

ここからは<u>『衰退期突入を数年後に控える(1955年)頃の話』で、「当時の保有屋台」は、【岡村】(黒塗り2階)、【東町】(素木2階)、【本町】(黒塗り2階)、【中町東組】(素木3階、現・西条・天皇)、【中町西組】(素木3階、現・西条・北之丁上組)、【西町東組】(素木2階)、【西町西組】(素木2階)の7台であった。他に【横町・坂ノ下】(素木2階)も有ったが、これは常盤神社に収納したままで、運行していなかった。その頃は国道11号は存在していなかったし、すべての道路がまだ舗装されてなく、土のまんまであった。 先に列記した運行屋台7台はすべてが小松川以東の屋台だったので、他の地域に花集めに行くことはなく、狭いそのエリアだけを、まるで回遊魚ように行き来し、そのいづれかの屋台が駅前広場や駅前通りや旧国道で、道路のど真ん中に屋台を堂々と据えて、その傍らで車座になって飲酒し休憩してる様子は、何度となく頻繁に目にする光景であった。そしてそんな時、遠くでこれを目にした車両は、その場でいち早くそそくさとUターンする場面も時には見ることもあった。又、どの屋台も食事時になると地元に帰って行き、提灯装備も夕食と同時に行っていた。台車については、今から見ればまさに過渡期であったのだが、そもそもそれまでが、舁くこと以外考えられない時代だったし、未舗装のでこぼこした路面に、屋台の動きが悪くなると言って至って評判が悪く、どこの屋台もまだまだ台車に魅力を感じていなかったのである。そんな中で「宮出し」及び「宮入り」の行き帰りは、すべての屋台が旧国道(こんぴら街道)を舁いて行き帰りしていた。そして、その舁き屋台は勢いづくと右に左に荒々しく進むので、張り出した瓦屋根の軒先等をよく引っ掛けていたし、道端の側溝は溝蓋で塞がれていなかったので警護は大変な思いをして、特に暗くなってからは足元にかなり苦労したようであった。ただ、当時は車両の通行が全くというほどなかったので、通行許可という言葉すら存在せず、交通整理の必要もなく、道路は屋台の運行にはまさに独壇場であった。ということで、今の「宮入り」のように、車両の通行規制や事故防止や防犯等のためと言え、祭り現場を警察官が見守ってくれるなどということは、必要もなかったし、仮にやろうとしても物理的にも人員的にも不可能だったであろう。ここでちょっとリスキーであり今ではNGとなる話で、70年代以降は西条祭りでもずっと皆無になっているが、この頃はこのように舁き屋台ばかりなので、運行のはざ間には酒のせいもあって、突発的に屋台同士が鉢合わせする喧嘩が小松でも時としては起きていたのである。いついつ◇◇屋台と※※屋台が、あの何々屋さんの近くで当たったというような話が、瞬く間に近隣に広まって行ったのである。その頃、聞いた話では、「宮出し」「宮入り」の神社近辺で起きたことはなく、いつも起きるのは、商店が立ち並ぶ地区の路上で花集めや、今でいう「後夜祭」で出会った時であった。一度衝突と興奮して両方の屋台から怒号が飛び交い、すぐには離れずにわかに押し合いへし合いが始まり、数分間続くのである。それは、押し切られた方が負けとなり、その後祭りの話が出る度に、数年後まで何度となく言われ続けらからである。たいていは屋台正面の下高覧と乳隠しの一部を傷付ける程度であった。しかしながら、いつもそのような損傷が有ったにも関わらす、なぜか翌年の祭りはいつもの年と何一つ変わらぬ様子で行われていたのである。おそらく、そこそこの修理も出来上がり、ほどよく手打ちがまとまったことで、幸いにも重大事態には至らなかったのであろう。この頃は、屋台同士の喧嘩で、翌年の例祭は運行停止になるという決まりはなく、このペナルティールールがで出来たのは、先に述べた西条で当時までこのような喧嘩がさみだれ的に続いていたので、それを何とか無くそうとしてと60年代前期当たりにに制定されたものであろう。

この頃の「屋台の組み付け」は自営業者が今よりずっと多かったので、平日であろうと祭り前日になって行われていた。そして、自治会の集会所などはまだまだ完備されておらず、保管できる場所はどこにもなかったので、天候のことも憂慮されたのだが、車両の通行が殆んどなかったので、布製の飾り物(天幕・水引幕・台輪幕)と隅提灯と胴板と太鼓は取り付けずに、骨組みだけの状態のまるで外装を剥がされた乗用車のような姿で夜通し路上に置れていた。その後、翌日になって舁き夫が増え始めると、前述の祭具は手際よくあれあれいう間に取り付けられ、さっさと舁き出すのであった。そうして、祭りが終わり「屋台の解体」ともなると、僅か6~7人の人達で毎年祭り翌日の午前中には必ず行われ、前日までのあの勇姿は、そこであっけなくその姿を消すのであった。又、祭り期間中にあいにく雨にたたられた時は、布製の厚めでやや重い、自衛隊でよく見かける色のテントシートが、屋台の屋根に一枚だけ掛けられ、道路がどろんこになるので運行は当然そこで停止されたが、人々は付近で飲食しながら過去の祭りの話などで大いに盛り上がりながら、長々と談笑し続けたのである。

「祭り装束」については、まだまだ世の中が戦後の貧困期でもあったので、現在のようにはまるで洗練されておらず、法被姿もまったく見られず、各人各様に普段着のままの作業ズボンに地下足袋履きで、かろうじて、ねじり鉢巻だけは今よりはるかに多かったのだが、見た感じはまるで統一感がなく、ほぼ無彩色であった。当時の西条祭りは、今の半数程度の屋台数にも関わらず依然濃密であったが、それとは違って、まさに地方の小神社の氏子仲間だけでそれなりに行う、ほのぼのとした素朴な祭りだったのである。このことを考えてみると、社会が豊かになって来たこともあるが、特にビデオが普及してからは急速にビジュアル化し、遠めに見ても鮮やかで、絵になる祭りになって来たことがよく分かるのである。ところで、祭り経験者なら誰もがよく知る「ラクダの三つ揃え」は西条祭りではすっかり定着していたが、当時の小松祭りでは誰ひとり着けておらず、「ネルの腰巻」が取り入れられたのでさえ、80年代の復活劇からのことである。

「稽古太鼓」については、この頃は夏休みが終わると、それを待ちかねたかのように、どこからか太鼓の音が聞こえて来るのであった。子供が溢れかえっていたこともあり、小学校から子供たちが引けてくると、地区のおじさんにねだって太鼓を運び出し、道端に無造作に置かれた太鼓に、地べたに敷いた新聞紙等に腰を下ろして行うのだが、順を争ってバチを奪い合うほどの活気にあふれ、周囲は他の子供達が道路いっぱいになって遊びまわっていて、みんなで祭りが来る日を心待ちにしていたのである。時には自営業者のおじさんが手を休めて休憩がてらに教えてくれたりすると、みんなでその周りを群れ囲んで注目し、聞き入っていたのである。ここで、たたひとつだけ残念なことは、当時は数種類の太鼓の打ち方が有り、バレエティのとんで興趣もあったのだが、衰退後はすっかり忘れ去られ、中には絶滅危惧種に置かれているものもあるという点である。又一方では古い家屋ばかりでアルミサッシなどまだまだ普及していなかったが、稽古太鼓の騒音にも近所からのクレームは一切なく、むしろ年に一度の「秋の風物詩だ」くらいに思ってくれたいたに違いない。

何につけてもないないづくしの時代では有ったが、さりとて年間休日の少ない時代ゆえの深い非日常性の貴重さを感じながら、レジャー感覚などうぶ毛ほどもまだ生え始めてなかったので、年間でも他の行事では得るに得がたい熱い開放感に存分に包まれて、至ってハートフルな空間の中で行われていた祭りだったのである。

『あとがき』半世紀まえの古びた話をなぜここまで長々としてきたかと言えば、現在の祭り環境がいかに恵まれているか、その対比として述べてきたものである。しかし、その当時から今まで間には、まず気候の変動があり、屋台の形体は、台車(2輪から4輪)を多用するようになったり、外舁き棒が付いたりする変革を見せる中で、通行許可による制限はあるものの、それ以上に、例祭日以外でも屋台を目にする日が増えたり、降り方にもよるが雨天時の運行が可能になったり、また一方では、車両による人的移動の容易性や、屋台収納の安全性や、はた又、舁き夫のファッション性向上や、ビデオ撮影による娯楽性や、食料調達の利便性その他があり、多方面にわたって格段に向上する様変わりを見せて来たのである。 しかしながら、いにしえの発祥当時からずっと変わらないものある。それは、ただひとつ、祭りはその時代に生きる人々によって支えられているということである。つまり人々の祭りを愛する気持ちがあればこそ、長く続いて来たのであろう。時代は人々の生き様によって彩られ、人々は時代を受け入れながら生きてゆく。祭りはそれぞれの時代を反映しながら生き続けているのかも知れない。果たしてこれからの時代、21世紀の祭りは、どのように続いてゆくのだろう? -->

祭り屋台奉納神社目録(西条市小松編)[編集]

三嶋神社祭禮[編集]

★【主祭神】:大山祇大神(おほやまつみのおほかみ):雷大神(いかづみのおほかみ)

★【例祭日】:10月16・17日

★【神 紋】:折敷に縮三文字(おしきにちぢみみもじ)

        「折敷」とは、周囲に折縁(おりぶち)をつけた角盆。隅切り盆。食器を載せる食台。

★【奉納屋台】:12台 【壱番・岡村】(素木2階)、 【弐番・西町西組】(素木2階)、 【参番・西町西組】(素木2階)、 〔四番・欠番〕、 【五番・東常盤】(黒塗り3階)、 【六番・川原谷】(素木2階)、 【七番・新宮藤木】(素木3階) 、【八番・中常盤】(素木3階)、 【九番・新屋敷】(素木3階)、 【拾番・宝来】(素木2階)、 【拾壱番・中町】(素木3階)、 【拾弐番・旧藩】(素木2階)、 【拾参番・北川】(素木3階)

別に、【急坂子供屋台】(白木2階)

(この「屋台番号」に関しては、衰退以前は早朝の「宮出し」で神社に屋台がたどり着いた順に与えられていた。しかし、1982年、東常盤の新規参入の際、今後は岡村、西町西組、西町東組の既存3屋台の後に通し番号を付けてゆくことになり、また、以前の早い者勝ちのようでは、将来喧嘩の種にもなりかねないということも配慮して、固定されたものである)

当神社の例祭は、市内の三島神社の中では格段に圧巻であるが、祭り見物には、まず平和的であり気軽に行けて、込み合うこともない。

「三島神社」は、総本社を愛媛県大三島大山祇神社(大三島神社)と、静岡県三島市三嶋大社に持ち、併せると全国に400社余り存在する。東予地方では、四国中央市三島の国道11号沿いにもあり、ここでは太鼓台が奉納されている。この西条市でも7社あるが、そのすべてが市内西部(東予市、丹原町、小松町)に点在する。ただし「嶋」の字を用いているのは当神社だけで、他はすべてが「島」の字である。更に全国的に広げて見ても「嶋」の字は少数派である。当神社は、元は町内新宮地区北部に鎮座されていたが、たびたび中山川の氾濫に遭遇するうち、幕末になってから当地船山の頂きに移転された。

ちなみに、「大山祇神社」については、そもそもが大三島は「大御(み)島」と言い、神の島とされていた。本来は島の名前が社名であって、古くから「大御嶋神社」を名乗っていたが、明治時代に入り現在の社名に改名された。全国に1万社の余りの分社を持つ。当世は国宝の島とも呼ばれ、全国の甲冑の4割と他の武具も数多くあり、名武将の奉納品がずらりと保管されていて閲覧も可能である。

「神紋」とは、その昔から地域の氏子衆が、先祖代々、氏神さまを地域安泰の守護神として崇め、その精神の象徴として捉えらているものである。そのため、例祭ではその強いポリシーが、奉納屋台や祭具には多岐にわたって注ぎ込まれており、屋台でひときわ目を引く「水引幕」の側面には、極めてシンボル的に1ツないし2ッを刺繍もしくは染め抜きで施し掲げる他、「台輪幕」にも絵柄に添えて染め抜かれていたり、はた又、「鬼板」や「唐破風」(からはふ)や屋台下部正面の「袖障子」に埋め込まれていたりする屋台も有り、更に、法被(はっぴ)や「ダボシャツ」やジャンパーはもとより、近頃は祭り時期の気温上昇に伴い、半袖Tシャツをも含めた祭り装束全般にも地区名の上には、欠かさず付けられている。

地区内に氏神を有する「新屋敷屋台」と「北川屋台」は、それぞれの氏神である「一之宮神社」と「柳神社」には当然のことながら奉納されるが、更に三嶋神社の例祭においても、他の屋台と平穏に共調しながら、つつがなく運行されている。

一之宮神社祭禮[編集]

★【主祭神】:大国主之大神(おほくにぬしのおほかみ)

★【例祭日】:10月17日

★【神 紋】:亀甲(きっこう)

★【奉納屋台】:新屋敷

当神社には、明治末まで「船屋台」の奉納があったという史実がある。 近年は、10月16日夕刻から小松小学校グランドで行われている全屋台による「祭り屋台舁きくらべ」の後、任意に数台の屋台が当神社の境内に肩をならべ、提灯をかすめ合うような練りを展開する。

柳神社祭禮[編集]

★【祭神】:大山祇大神(おほやまつみのおほかみ):雷神(いかづものかみ)

★【例祭日】:10月17日

★【神 紋】:折敷に縮三文字(おしきにちぢみみもじ)

★【奉納屋台】;北川

当神社は、三嶋神社と同じ主祭神・大山祇大神が祀られており、大山衹神社の分社である。そこで仮に大三島の大山祇神社を「房」の頭とすると、全国各地にある三島神社と共に、別名を名乗ってはいても、大山祇大神を筆頭に祀る各地の神社は、それらのすべてが「房糸」の1本と考えると、実に解りやすい。

常盤神社祭禮[編集]

★【主祭神】:大国主之大神(おほくにぬしのおほかみ)

★【例祭日】:11月9日

★【神 紋】;丸に蔓柏(まるにつるかしわ)

★【奉納屋台】:東常盤:中常磐:西町西組(西常盤)

当神社は、古くから通称「お蛭子(えべす)さん」と呼ばれ、又、住宅街の中に有りながら、道路から見上げる境内には見ごたえのある桜の木々が所狭しと枝を伸ばし、ずっと地域の人たちに愛され親しまれてきた。2000年頃からは当神社の例祭は別にして、三嶋神社例祭を間近に控えた10月初旬の休日夕刻に、新たに「常盤祭」と称して、常盤地区屋台と近隣地区屋台が提灯姿もあでやかに当神社前に集い友好を深め、その後は駅前広場や近くの元商店街路上を22時ぎりぎりまで、何度となく行きかい、互いに絡み合いながら、とことんまでにぎにぎしく往来し続ける。

河内八幡神社祭礼[編集]

★【主祭神】: 市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)

★【例祭実】:10月15日

★【神 紋】:右三つ巴(みぎみつどもえ)

★【奉納屋台】:大郷

大郷屋台は、2000年に屋台取得後いち早く「小松町屋台運営委員会」に加盟し、地元での例祭を卒なくこなした翌日16日夕刻には、小松小学校グランド行われている総勢屋台による「祭り屋台舁くらべ」に、遠路をさしてものともせず勇躍駆けつけ、小松地区の屋台とも快適に交流を図っている。

貴船神社祭礼[編集]

★【主祭神】:雷神(いかづちのかみ)

★【例祭日】:10月の第2土・日曜日

★【神 紋】:左三つ巴(ひだりみつどもえ)

★【奉納屋台】:東大頭

石土神社祭礼[編集]

★【主祭神】神:石土毘古神(いしつちひこのかみ)

★【例祭日】:10月14・15日

★【神 紋】:丸に石の字

★【奉納屋台】:妙口子供屋台 

注釈[編集]

  1. ^ 「小松」という地名は、寛永13年(1636年)に一柳家の三男・直頼公が立藩の際、付近に背の低い松の木が群生していたのを見て「小松藩」と命名したことに由来する。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]