小松俊広
基本情報 | |
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国籍 |
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出身地 | 高知県高知市[1] |
生年月日 | 1940年1月13日(83歳) |
身長 体重 |
174 cm 71 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1958年 |
初出場 | 1958年 |
最終出場 | 1960年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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小松 俊広(こまつ としひろ、1940年1月13日 - )は、高知県出身の元プロ野球選手(投手)。プロ入りまでの名は敏宏。
来歴・人物[編集]
高知商業高等学校では、エースとして1957年の春の選抜に出場[1]。小倉高、八幡商を破り準決勝に進出する。準決勝でも倉敷工の渡辺博文らに3-1で投げ勝つ。しかし決勝では王貞治投手を擁する早実と対戦し3-5で敗退、準優勝にとどまった[2]。同年夏の南四国大会でも決勝に進出するが高知高に0-1で9回サヨナラ負け、甲子園出場を逸する。この時のチームメイトでは捕手の坂本宏一(大洋)、遊撃手の尾崎靖夫、外野手の倉内顕(西鉄)がプロ入りしている。王、清沢忠彦とともに左腕投手の三羽烏として注目される。
1958年に巨人入団[1]。1年目から一軍で起用され、4月13日に広島カープを相手に初先発。同年は14試合に登板し、リリーフ、抑え投手として実績をあげる。同年の最終戦で2度目の先発、広島の橋本敬包と投げ合い5回を無失点に抑えるが、打線の援護がなく勝ち星はつかなかった。しかし翌1959年7月2日には大洋ホエールズを相手に先発、鈴木隆との左腕対決となるが、5回2/3を2失点に抑え初勝利を挙げる。将来を期待されたが、その後は故障もあって伸び悩み、1962年限りで引退した[1]。
引退後は巨人のチーム付スコアラー(1963年 - 1964年, 1984年 - 1985年)、先乗りスコアラー(1965年 - 1983年)を務めた[1]。先乗りスコアラーの先駆者の一人である。
詳細情報[編集]
年度別投手成績[編集]
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1958 | 巨人 | 14 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 140 | 31.2 | 20 | 1 | 26 | 0 | 0 | 23 | 5 | 0 | 13 | 7 | 1.97 | 1.45 |
1959 | 11 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | -- | -- | .500 | 126 | 29.0 | 23 | 3 | 18 | 0 | 0 | 35 | 2 | 0 | 14 | 14 | 4.34 | 1.41 | |
1960 | 10 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | -- | .000 | 76 | 18.0 | 14 | 1 | 10 | 0 | 0 | 14 | 0 | 0 | 11 | 9 | 4.50 | 1.33 | |
通算:3年 | 35 | 6 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | -- | -- | .333 | 342 | 78.2 | 57 | 5 | 54 | 0 | 0 | 72 | 7 | 0 | 38 | 30 | 3.42 | 1.41 |
背番号[編集]
- 45 (1958年 - 1961年途中)
- 47 (1961年途中 - 1962年)
脚注[編集]
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 個人年度別成績 小松俊広 - NPB.jp 日本野球機構