小岩井光夫

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小岩井 光夫(こいわい みつお、1910年明治43年)5月22日 - 1959年昭和34年)2月17日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐

経歴[編集]

長野県出身。農業・小岩井鈴弥の三男として生れる。松本中学校から陸軍士官学校予科を経て、1934年(昭和9年)6月、陸軍士官学校(46期)を卒業し、同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第5連隊付となる。

その後、支那駐屯歩兵第1連隊[1]から、同連隊中隊長、第27師団参謀部付などを経て、1942年(昭和17年)3月、シンガポール攻略後の歩兵第41連隊第2大隊の大隊長となり、同年8月陸軍少佐に昇進した。

歩兵第41連隊第2大隊の大隊長としてポートモレスビー作戦に参戦し、ニューギニア戦線から帰還後参謀本部付を経て、1945年(昭和20年)6月、第96師団参謀となり終戦を迎えた。

ポートモレスビー作戦[編集]

第5師団の指揮下を離れフィリピン攻略の増援のため、歩兵第9旅団長河村参郎少将率いる河村支隊の基幹としてダバオに在った歩兵第41連隊は、1942年(昭和17年)8月4日にダリアオンからパラオ経由で8月17日の午後ラバウルに到着し、ポートモレスビー作戦担当の南海支隊に配属された。堀井富太郎少将率いる南海支隊主力は、同日歩兵第41連隊の到着に先立ちラバウルを発ちブナに向かっていたため、歩兵第41連隊も南海支隊主力を追い8月19日にブナに向いポートモレスビー作戦に参戦した。この間の8月18日に、歩兵第28連隊の一部約900人から成る一木支隊は、ガダルカナル島に上陸し8月21日には壊滅している。

南海支隊は栄養失調マラリアによる犠牲者を出しながらも順調に南下を続けていた。しかし、食糧が尽きかけ一刻も早いポートモレスビー総攻撃を切望し、オーエンスタンレー山脈の北に待機の指示に対し、ポートモレスビーまで約50キロのイオリバイワに迫っていた南海支隊にとって、9月13日の川口支隊のガダルカナル島夜襲失敗の報は驚愕であった。夜襲失敗によりラバウル方面に招致中の青葉支隊も第2師団主力もガダルカナル島方面に向けられることになり、ニューギニア戦線は見捨てられてしまう事態となったのである。なお、9月16日には歩兵第144連隊[2]がイオリバイワの敵陣を奪取したが、倉庫は空だった。

まず、歩兵第41連隊主力が9月16日に撤退を始め、オーエンスタンレー山脈の峠に陣地を構築し米豪軍を食い止めることを任務とした歩兵第144連隊第2大隊基幹のスタンレー支隊が編成され陣地造りに先発し、小岩井の指揮する歩兵第41連隊第2大隊が南海支隊後衛となり踏み留まっている間に撤退準備が行われた。撤退は9月25日に開始され10月4日にココダに到着した。しかし10月下旬になると峠の陣地のスタンレー支隊への米豪軍の攻撃が始まり、スタンレー支隊も撤退し、南海支隊はクムシ川河口付近まで後退することになった。このため、10月25日に歩兵第41連隊の部隊が峠の陣地に急行し、小岩井等が後衛となった。

小岩井等の後衛部隊は、10月28日まで峠の陣地に踏み留まっ後、10月29日早朝にイスラバ着、夜明けまでに陣地を構築したが追撃はなかった。翌10月30日になるとマラリアで発熱するものが出て、病人を後退させたため後衛部隊は小岩井以下16人になっていた。しかしここでクムシ川河口付近まで後退の予定が変わり、オイビに防衛線を構築することとなりオイビに後退、11月10日にはオイビの陣地からも撤退、またしても小岩井指揮の歩兵第41連隊第2大隊に後衛が命ぜられた。

小岩井は、まず自隊の大隊砲を捨て[3]、死んでも武器を放さないことが本分と教えられ、銃を放したがらない疲労した兵を見つけると、自隊の兵他隊の兵を問わず銃を奪い捨ててしまった。視認の効かないジャングルの銃撃戦では発射できる弾丸の量が全てで、米豪軍の自動小銃に対し旧式の三八式歩兵銃など戦力的には殆ど無力であり、元気なものなら武器を携行していることが精神的な支えになるものの、歩くことがやっとの兵には邪魔なものでしが無いからである。こうして撤退を続け、高砂族の一人に教えられた方法でを作りクムシ川を渡河し、現地の人の案内でブナの西方約20キロのゴナに向かい、11月24日には偶然にも連隊主力と遭遇、残り少ない兵力ではあるが歩兵第41連隊が一つになり11月26日ゴナにたどりついた。そして、第1大隊をゴナに残し、その夜回航された大発に乗艇しブナとゴナの中間地点にあるギルワに到着した[4]

この頃、事態の容易ならざることにようやく気づいた大本営は、第17軍にはソロモン諸島のみを任せ、ニューギニア戦線担当の第18軍と、第17軍・第18軍を統率する第8方面軍を編成した。新設された第18軍は、欠員となっている指揮官や支隊の補充員に加え、第38師団の歩兵第229連隊と独立混成第21旅団の増派を決め、駆逐艦による輸送を行った。だが、敵襲のため輸送は難航し状況は好転しなかった。そして12月23日にはブナ地区からラエ・サラモア方面への撤退が決定され、海軍の第7根拠地隊が駐屯しているだけだったラエ・サラモア方面に第51師団を向けることにした。

すでに12月8日にバサブアは玉砕し、その後12月の末にはブナの飛行場が米豪軍に奪取され、歩兵第144連隊後任連隊長山本重省大佐指揮の増援部隊[5]も壊滅した。残ったギルワは三つの陣地に分れていた。海岸陣地では、山県栗花生少将以下の独立混成第21旅団[6]に独立工兵第15連隊等を加えた部隊が傷病者の後送にあたっており、中央陣地には南海支隊の大部分が、南西陣地には塚本初雄中佐の指揮する歩兵第144連隊主力が陣取っていた。

地域全体の指揮は、独立混成第21旅団長山県少将がとっていた。中央陣地の南海支隊の指揮は後任支隊長である小田健作少将[7]がとっていたが、1943年(昭和18年)1月15日には指揮を独立高射砲第47大隊長の淵山中佐に任せ、小田少将以下南海支隊幹部は海岸陣地に後退した。また、連隊長の矢沢清美大佐がブナの救援から戻った後マラリアを発病し後送[8]されたため、歩兵第41連隊は小岩井が指揮していた。そして淵山中佐は高射砲大隊長で地上戦に不慣れなため、小岩井が中央陣地からの撤退の指揮をすることになった。塚本中佐指揮の部隊はオーエンスタンレー山脈からの撤退以来、独断で行動することが多くなっていた。

米豪軍の包囲の圧力は日増しに強まり、海岸陣地と中央陣地も分断されてしまっていた1943年(昭和18年)1月19日夜、海岸陣地の小田支隊長から中央陣地の小岩井に命令が届いた。「明晩10時をもってギルワから撤退せよ」ということであった。故意か手違いかブナ地区からの撤退について事前には知らされておらず、1月16日には第18軍司令部に決別電報[9]を打ち、全員揃っての玉砕を覚悟していた中央陣地に動揺が広がった。傷病者の扱いが問題であり、助かる望みの有るものと無いものとが分かれ、団結は崩れてしまった。だが「動けないものは置いて行け」との命令があり、置いて行くほかに道は無かった。衰弱し自決もままらない者が処分を懇願し、その銃声があちこちから聞こえた。

1月20日は午後から豪雨になり夜も続いた。午後8時に撤退部隊が集合した。一時は4,000人以上いた将兵であったが、この時集まったのは1,000人余りになっていた。降り続く雨が天の助けだった。目と鼻の先にいる敵にも気づかれなかった。小岩井が倒れたら、指揮は村瀬少佐、近藤大尉、林大尉の順でとることにした。歩兵第41連隊の連隊旗は分解し三つに分け、旗手の有田少尉の他森田中尉と垣井少尉が携行した。おおよそ2時間かけて終結確認を行い、小田支隊長からの命令の午後10時に行動を開始した。虎の尾を踏む思いで手探りに一寸ずりに闇の中を進み、深夜0時頃までにやっと先頭が700~800メートル進んだ。あちこちに電話線が敷設されていたので電話線には触れないよう指示した[10]。午前1時頃ようやく全員が敵の陣地線を通過した。この地点は、野戦病院のあった場所の南に当たり、埋葬する人手がなく死体を放棄した場所であった。その死体の腐敗臭で息もつまりそうだった。「死んだ戦友達の霊が守ってくれたのだ」と語りあった。夜明けまでに3キロほど進んだ。電話線がいたるところに敷設されており、大規模な軍が周到な準備のもとに攻撃しているのが察せられた。午前11時頃、海岸の方から重機音が聞こえた、米豪軍が行く手に自動車道路を造っているのだった。日暮れまで森林中に円陣を敷いて待機した。

ここで隊を二つに分け、小岩井と加藤少佐がそれぞれ1隊ずつを率いて進んだが、加藤少佐率いる隊の後ろの隊がいつのまにか小岩井の隊の後ろになっていた。斥候が敵の歩哨と出くわし睨み合いになったこともあったが、何を思ったか敵の歩哨が戻ってしまったすきに全員道路を横断、ジャングルに潜み西へ西へと進んだ。次の日の22日の午後からは、大隊単位ぐらいの100人前後に分け分進することとした。しかしやがて何組かが合流し、概ね2組の縦隊となった。

最後の難関のパサブア-ソプタ道を、23日24日の2日間かけて突破した。この時既に食糧は尽き、落伍者が出始めた。小岩井等の隊は1月25日にはじめて部落を発見し食を得た。その後、現地人の踏み分け道を通り、オイビの陣地から撤退した際通ったジャガラハンボの部落に到着、しかし部落は一変し住民は一人もいなかった。ここからは食糧を探しながらの行軍で、進度は遅々としてはかどらなかった。だがクムシ川沿いに道が続いており迷うことはなかった。分進していた部隊は次々に集まり出発当初の編制に戻ったが、人数は目に見えて減っていた。海岸陣地から撤退した者も集まってきたが、その数はあまりにも少なかった[11]。撤退命令を待たず、独断退去した塚本中佐指揮下の部隊の将兵の死体があちこちに倒れていた。その中には、野戦病院退院後、歩兵第144連隊の主力部隊と行動を共にしていた歩兵第41連隊の兵士の死体もあり、暗澹たる思いであった。

1月28日にクムシ川河口やや南方のバクンバリにたどりつき、1月30日にかけてクムシ川河口付近に集結、第51師団の先遣隊の一部の部隊に収容され、2月8日に集結地点のマンバレーに到着した。その後歩兵第41連隊はラバウルに集結、病死を含め4,000人以上が戦死、傷病後送された者が約300人、残った者は200人に満たなかった。

年譜[編集]

  • 1934年(昭和9年)6月 陸軍士官学校卒業
  • 1934年(昭和9年)10月 陸軍歩兵少尉・歩兵第5連隊付
  • 1936年(昭和11年)4月 支那駐屯歩兵第1連隊付
  • 1936年(昭和11年)5月 陸軍歩兵中尉
  • 1938年(昭和13年)3月 支那駐屯歩兵第1連隊中隊長
  • 1938年(昭和13年)7月 陸軍歩兵大尉
  • 1939年(昭和14年)1月 第27師団参謀部付
  • 1940年(昭和15年)3月 支那駐屯歩兵第1連隊副官
  • 1942年(昭和17年)3月 第5師団・歩兵第41連隊大隊長
  • 1942年(昭和17年)8月 陸軍少佐
  • 1943年(昭和18年)6月 参謀本部付
  • 1945年(昭和20年)6月 第96師団参謀
  • 1945年(昭和20年)10月 復員

著書[編集]

  • 『ニューギニア戦記』出版協同社、昭和28年。

脚注[編集]

  1. ^ 盧溝橋事件発生当時、一木清直少佐の指揮する支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊に属していた。
  2. ^ この時、連隊長の楠瀬正雄大佐はマラリアを発病しており、その後ラバウルに後送された。歩兵第144連隊の指揮は第1大隊長塚本初雄中佐がとった。
  3. ^ 一方、砲を処分し傷病者を担送するよう命じられた山砲兵第55連隊第1大隊第3中隊長の高木義文中尉は、砲との決別を潔しとせず処分後自決した。
  4. ^ 支隊長の堀井少将は11月19日、一同と別れ参謀や従卒を連れ筏でクムシ川を下り、途中でカヌーに乗り換え河口から海に出、海路ギルワをめざしたが11月23日に突風でカヌーが転覆、亡くなった。
  5. ^ 11月17日夜、歩兵第144連隊後任連隊長山本重省大佐指揮の、歩兵第144連隊補充員及び山砲兵1個中隊と第38師団の歩兵第229連隊第3大隊が、駆逐艦による輸送でパサブアに上陸し、ブナの救援に向かった。既に駐屯していたブナの守備隊を含め、翌1943年(昭和18年)1月2日に壊滅した。
  6. ^ 12月1日夜、駆逐艦輸送で、バサブア泊地に進入したものの敵襲を受け移動、山県栗花生少将と独立混成第21旅団のうちの425人のみ、北西のクムシ川河口に上陸した。
  7. ^ 12月14日、ブナ地区から90キロほど北西のマンバレー川河口付近に、南海支隊後任支隊長小田健作少将指揮の約870人が上陸、大発で12月20日にギルワに着き、小田少将が、堀井少将亡き後支隊長代理として指揮していた独立工兵第15連隊長横山与助大佐から南海支隊の指揮を引き継いだ。
  8. ^ 後送された歩兵第41連隊の矢沢連隊長は2月5日にマラリアで亡くなった。
  9. ^ この決別電報に驚いた第18軍司令部は「支隊長と緊密な連絡の上、慎重に行動せよ」と返信した。
  10. ^ 電話線に触れなかったのは賢明だった。ガダルカナル島では例外なしに電話線を切断したため、敵に察知されてしまった。
  11. ^ いちはやく脱出した山県少将以下の部隊が全ての舟艇を使用したため、海岸陣地に在った小田少将以下の部隊は脱出用の舟艇が無く、あるものは自決、あるものは敵中突破を図ったが、将校は全員戦死し脱出できたのは下士官以下ほんの数人だった。

関連項目[編集]